感想:映画『ザ・プロム』 分断を超えるには

【製作:アメリカ合衆国 2020年公開 Netflixオリジナル作品】

落ち目のブロードウェイ俳優であるディーディーとバリーは、新作の評価の低さに意気消沈していた。
社会貢献によるイメージ回復を目論み、インターネットで調べたところ、インディアナ州でレズビアンの高校生がPTAによりプロムから排斥されているという。
保守的なPTAや生徒達を「改心」させるべく、ふたりは昔馴染みのアンジーとトレントとともに現地に向かうが……

本作は、現代の米国における政治的な分断をミュージカルを通して描いた作品である。
とりわけ、ブロードウェイやハリウッドなど、ポピュラーカルチャーのリベラル傾向が非常に強い一方で、国民のほぼ半数が共和党を支持する状況に焦点が当てられている。

ディーディーとバリーは、傲慢でナルシストな「鼻持ちならないセレブ」というキャラクター付けがなされている。トニー賞の受賞歴をひけらかし、インディアナ州を悪びれず「田舎」と呼ぶなど、相手を顧みない失礼な言動も多い。
しかし、下がり調子とはいえ、彼らはブロードウェイで働いてきた人物だ。自らがゲイであるバリーをはじめ、ディーディーら他のメンバーも、「LGBTQ差別が許されない」ことを確固たる共通認識としている。
また、こういった社会問題を取り上げる上では「歌や踊りよりもデモ」である、という考え方も序盤で語られる。(これは『ヘアスプレー』にも登場した)
虹色のプラカードを持ち、勇んでインディアナ州に「啓蒙」に赴いた一同だが、現地の反応は芳しいものではなかった。

性的指向による差別の否定は、既に法律のレベルでは達成されており、エマがプロムから締め出されるのは不当だと裁判で決定が下っている。
しかし、異性愛規範にこだわるPTA会長や同級生達は、裁判に負けても自らの考えを変えようとはしない。
また、ブロードウェイスターであるディーディーとバリーの知名度がインディアナ州ではかなり低い点も、ニューヨークなど大都市圏との文化の違いを示している。舞台俳優からは「格下」とされる傾向にあるテレビ俳優のトレントが、インディアナでは「有名人」になる。

ハリウッドやブロードウェイではもはや不文律といえる多様性の尊重が、保守的な人々に通じていないのは、彼らそうした作品を鑑賞していないか、または鑑賞していても意識していないからだ。 
後者については、「フェイク・プロム」のシーンにおいて、エマを排斥して開催されているプロムで流れているのがデュア・リパの曲であることが象徴的である。
デュア・リパはLGBTQからの人気が高く、プライドパレードに参加する歌手である。その文脈を知っていれば、レズビアンを排斥したプロムで彼女の曲を流すのは矛盾する行為だ。
政治的な立ち位置を明確にして活動する歌手が多数いる一方で、彼らの作品を「流行りもの」として表面的に消費する人々も一定数存在することが示される。

一方的な「啓蒙」「発信」が通用しない人々をどうやって変えるか? というテーマに、本作は「対話」をもって取り組む。
トムはエマのクラスメイト達と、直接向かい合って、インディアナ州で主流である保守的なキリスト教の教えについて語り合う。その教えが同性愛を否定していると解釈できることから、彼らはLGBTQを受け入れないという理屈なのだが、そうした保守的な信者の多くは聖書の他の教え(タトゥーや自慰、未婚での性交の禁止)を尽く破っていて、都合よく聖書を読んでいるのだとトレントは指摘する。
細部ではなく、イエスが説いた教えの基部である「隣人愛」に立ち帰ることを薦めるトレントの言葉に、クラスメイト達は反省し、エマに謝罪することを決める。

エマが自らの考えを訴える際、テレビではなくYouTubeを用いるのも印象的だ。
構造としては、テレビもYouTubeも1対多数のコミュニケーションであることに変わりはない。しかし、主にパソコンやスマートフォンを通して視聴されるYouTube動画においては、少人数が制作・発信したものを、よりプライベートな空間で少人数で視聴するという「対話」的な構図が発生する。コメント機能もその性質を支える。
エマもまた「対話」を通じて同じ属性の人々と状況を分かち合うとともに、自らの存在を社会に示し、「分断」を超えることに成功する。
なお、このシーンでは画面越しの人々の合唱がミュージカルとして成り立っている。本作の製作期間は2019〜2020年にかけてであり、元からプロットに含まれていたかはわからないが、物理的な距離があっても「合唱」して考えや感情を共有できると示している点で、COVID-19流行後に発表された作品としてのアクチュアリティも兼ね備えていると感じる。

ブロードウェイやハリウッドのエンターテインメントを日々鑑賞していると、作品も俳優も明確に多様性を訴えているにもかかわらず、なぜそれをキャッチできない人がいるのだろう? と思うことがしばしばある。
作品のポリティカルな意義を意識すればするほど、それを意に介さない鑑賞者を下に見てしまうし、「啓蒙」「説教」的なアプローチに傾倒してしまいがちだ。
しかし、彼らの考えにも背景や経験があり、決して「無知」という言葉ひとつで説明できるものではない。それを丁寧に解きほぐしていくことで、はじめて分断は超えられるのではないかと訴えていて、現代の米国の状況を前向きに捉えた作品だったと思う。

本作においてブロードウェイ俳優達は名声を目当てにした「偽善」を動機としてエマのもとに現れるが、たとえ出発点が偽善であったとしても、人が自分の権利を行使して幸せに生きることのサポートは可能であることが示される。これは社会支援活動を行う著名人に対する揶揄へのカウンターだといえる(とはいえ、動機が不純なものであったことの告白と謝罪は行っているが)

また、ディーディーの描写やエンドクレジットから、傲慢であることは避けるべきだが、人が自分を好きでいること、ナルシストであることは肯定する姿勢が窺える。
ディーディーとトムのロマンスにおいては、ファンが役柄と俳優本人を同一化して俳優を理想化していることに言及している。その上で、一方的な崇拝ではない関係を築くためには、そのギャップを認識して埋めていく必要があることをロマンティックコメディ的な手法で示していて、個人的には非常に好きな構成だった。

本作の物語の前提となっている、プロムは一世一代の大舞台、成功してこそ一人前!という米国の社会/パーティー志向の考え方にはピンと来ないところもあった。
バリーがエマのスタイリングをサポートする場面は『クィア・アイ』を意識していると感じた(同シリーズにも強烈なパーティー志向がある)

また、ポリシーを明示した上で大活躍する、「米国のエンターテインメント」の象徴といえる俳優メリル・ストリープが主演に据えられていることが、本作のテーマをより際立たせていた(華やかに歌い踊り、喜怒哀楽を露わにする演技も見事だった)
個人的にはバリー役のジェームズ・コーデンは誰かを励ます役が物凄く板についていると思っていて、本作でエマを励ましているシーンにも大変元気づけられた。

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