感想:映画『ヘアスプレー』 歌と踊りだけでは解決しない、それでも

https://youtu.be/W_CFcRAumZc

【製作:アメリカ合衆国  2007年公開】

1962年のボルチモア州。
歌と踊りが大好きで、ヘアスプレーで固めた嵩のある「ビッグ・ヘアー」がトレードマークのトレイシーは、ローカルの若者向け番組である「コーニー・コリンズ・ショー」の大ファンで、同番組への出演を夢見る。
体型を理由に一度はオーディションに落選するものの、アフリカ系(黒人)の学生と仲良くなって身につけたアフリカンダンスが評判を呼び、レギュラー出演者になるほどの人気を博す。
一方で、ボルチモア州には人種差別が根強く残っていた。WASP系(白人)とアフリカ系は同じプログラムに出演することが許されず、週に1度の「ブラック・デー」(アフリカ系の出演日)も打ち切られる。この状況に憤ったトレイシーは、アフリカ系の仲間とともに立ち上がる。

本作は人種差別を軸に、ルッキズム、エイジズム、ミソジニーなど様々な差別を批判し、乗り越えていく様子を描いたミュージカルである。
この映画は「エンターテインメントの力だけでは差別は解決しない」と作中で明示しているところがすごいと思った。
ポジティブで力強いナンバーが多く、主人公トレイシーの底抜けに明るいキャラクターと併せ、歌とダンスが魅力あるものとして示されるが、それだけでは個人のレベルで人種の壁を越えられても、社会の構造を変えることはできない。
トレイシーと、メイベルをはじめとしたアフリカ系の仲間が、差別を撤廃するようテレビ局まで行進するデモのシーンでは、権利を求める端的な言葉が書かれたプラカードが掲げられ、ダンスもなくカットの切り替えも抑えられ、ただ前へと行進し続ける人々の姿が描かれる。本作の他のシーンが、細かくカット割りされ、豊かな比喩を用いたポップな曲に彩られる中で、このシーンは際立つ。
本作は歌や踊りでの相互理解に留まらず、社会運動や正面から権利を求めることの重要性を訴えた上で、歌やダンスの持つ力に再帰する作品だ。人種にかかわらずキャストが楽しそうに踊るラストシーンは、デモがあってこそ成立する。

本作の根幹をなすのはアフリカ系差別への批判である。冒頭では、ボルチモア大学がアフリカ系の学生の入学を拒否したという新聞記事が映される。
トレイシーの住む町でも、WASP系の居住地である郊外(同じデザインの家々が立ち並ぶ様子が鳥瞰のようなショットで示される)と、アフリカ系の住むエリアは分断されており、互いの行き来がないことがわかる。「コニー・コリンズ・ショー」でもWASP系とアフリカ系の共演は許されず、差別的な考えを持つテレビ局の上層部や部長はアフリカ系の楽曲やダンスが放送されることを嫌う。また、アフリカ系の曲をWASP系が自らのものであるように歌う場面もあり、文化史における黒人音楽の立ち位置も示唆される。
本作のタイトルである「ヘアスプレー」は、「コニー・コリンズ・ショー」のスポンサー企業の商品である。トレイシーをはじめ作中の登場人物が装い、自信を持つためのツールだが、一方で「ブラック・デー」においては、MCのメイベルが「縮毛をストレートにできるスプレー」という、アフリカ系の形質に対する差別的なコピーでスプレーを宣伝させられている。
作中ではWASP系であるトレイシーが彼らと共に踊り、デモ行進にも参加する(警察に危害とみなされる行動を少しでも加えれば、メディアに暴力的だと歪曲されて報道される描写もある)
また、トレイシーの親友ペニーが「ブラック・デー」の花形出演者シーウィードと恋に落ちてテレビカメラの前で交際宣言を行う。これは軽快なミュージカルで演出されているものの、同時代としては相当大変なことだったと思われる(リベラル層のWASP系夫婦が、娘がアフリカ系の男性と結婚することに戸惑う様子を描いた『招かれざる客』は1967年公開)

こうした人種差別批判と同時に、本作はルッキズムやエイジズム、女性差別についても取り上げている。
トレイシーとその母のエドナはプラスサイズの女性であり、痩身を重視するテレビ局の部長ベルマと、その娘でトレイシーのライバルでもあるアンバーに体型を揶揄される。しかし、トレイシーもエドナも自分自身に自信を持ち、そのままの姿でおしゃれをして、幸福を掴む(あるいは再確認する)
また、クリーニングの内職をするエドナは結婚以来社会に出たことがなく、芸能活動を始めたトレイシーのマネージメントを躊躇うが、そんな母をトレイシーは「時代は変わった、今は1960年代よ」といって鼓舞し、外に出る後押しをする。
冒頭の郊外の映像や、家庭で「良き母」の役割を担うエドナの姿は、1950年代のマイホーム主義や良妻賢母を志向する思想を反映している。トレイシーの母への働きかけは、上記のような価値観からの脱却と女性の社会進出を推し進めるものだ。
同時に、年齢を理由におしゃれや仕事をあきらめている節のあるエドナが生き生きとカメラの前で踊るに至る流れは、年齢によってスタイルや行動の選択肢が規定されるエイジズムへの反抗と解釈できる。
なお、本作のヴィランであるベルマは、金髪碧眼にマネキンめいたしなやかな体躯という典型的な「美女」である。作中では差別的な発言や不正が強調されている一方、彼女にはプロデューサー等とセックスをしてポストの便宜を図ってもらうキャスティング・カウチによってキャリアを築いたという過去がある。ベルマ自身が女性を表面的に消費する価値観に長年抑圧され、その結果作中での言動につながったと捉えることも可能であり、だからこそトレイシーの行動は革命的であるとわかる。
また、作品は明るくハッピーエンドを迎えるものの、エンドロールで流れる曲の歌詞は「まだ差別は終わっていない、やっとここまで来た」という内容で、現代にも差別が根強く残っていることを示唆する。こうした明白な反差別のメッセージを、底抜けに明るいミュージカルと両立させているところが本作のすごさだと思う。

トレイシーは偏見に基づく手酷い仕打ちを受けても、傷つきながらもパワフルに未来を志向する圧倒的な"陽"の力を持つ人物である。勉強は苦手でやや協調性を欠くのだが、だからこそ恐れを知らずに政治的なメッセージを発することができるという人物像だ。
エネルギッシュな姿に好感と尊敬を持ちつつ、トレイシーがすべてを牽引する役割を担うのは、彼女のようなポジティブさや強さがない人は自己を肯定しづらいという現状の裏返しでもあると感じた。
エドナが彼女に影響されて自信を持ったように、あらゆる人が自分の存在を認められることを希求する、芯のある作品だったと思う。

5〜60年代の米国ファッションが好きなので、登場人物のスタイリングにも目を惹かれ、視覚的にもとても楽しめた。トレイシーはビッグ・ヘアやファッションに加え、腕時計など小物も可愛く、持ち物や服装が内面をつくるというところもあるのだろうなと感じた。

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