感想:映画『フェイフェイと月の冒険』 推進力はノスタルジーとファンタジー

【製作:アメリカ合衆国・中国 2020年公開 Netflix配給作品】

舞台は現代の中国。大好きだった母を亡くしてから4年、フェイフェイは父とふたりで家業の菓子屋を切り盛りしていた。
しかし、父はゾンという女性との再婚を決める。
フェイフェイは父が母の存在を忘れたと感じ、その再婚を受け入れられない。
母がよく聞かせてくれた神話に登場する一途な月の女神・チャンウーの実在を証明できれば、父が心変わりすると考えたフェイフェイは、勉強を重ねてロケットを自作し、月への飛行を試みる。
ゾンの連れ子であるチンがロケットに隠れて乗っていたなどのアクシデントがありながらも、月にたどり着くフェイフェイ。そこには確かにチャンウーがいたのだが……。

利発的な少女の冒険譚を描く3DCGアニメーション。ディズニーのフォーマットを踏襲したミュージカル演出と、「過去にとらわれず、思い出を糧にして今を生きよう」というテーマの下、現代的な表現が随所にみられる作品だった。

本作の中心にいるフェイフェイとチャンウーは、ともに自我が確立しており、自分の力で何かを成し遂げることができる現代的な女性として描かれる。
フェイフェイは月の神話を信じる傍ら、宇宙の仕組みを論理づける科学的な説明も理解する人物だ。チャンウーに会いに月に行くため、彼女は宇宙工学を学び、ロケットを自らの手でつくりあげる。
チャンウーも「神話上の女神」のイメージから逸脱している。華やかな衣装でEDM調のナンバーを歌い踊る「スーパースター」という彼女のキャラクター像は、レディー・ガガをはじめとするアメリカ合衆国の女性ソロアーティストを意識したものだ。主体的に人々をエンパワメントするアーティストの姿が投影されている点から、本作における女性像の現代性が窺える。

一方、本作が下敷きとする神話は「永久の愛」を標榜するものであり、フェイフェイと女神チャンウーは不変のパートナー関係を志向する。(フェイフェイの両親/ホウイーとチャンウー)
しかし、このような保守的な関係においては、それぞれの役割も固定されたものになる傾向にある。ホウイーとの再会を果たしたチャンウーは、伝統的なデザインで緑を基調にした衣を身に纏うが、こうした「一途で控えめな」姿は、スーパースターとして胸を張る彼女と比較すると魅力に乏しいものとして演出される。

過去の記憶や神話といったノスタルジーは尊重すべきもので、テクノロジーや表現の原動力・推進力になりうるが、それに囚われてはいけない、という本作の姿勢は、表現形式にも反映されている。
序盤で語られるホウイーとチャンウーの神話は、墨や鉛筆といった画材の痕跡を強調した2Dアニメーションで描かれる。このタッチで描かれたホウイー・チャンウーの姿はスカーフや屏風にデザインされて作中に登場するが、それはあくまで図柄であり、現実を生きるのは3DCGで描画されたキャラクター達である。(チャンウーが屏風に描かれた自分の姿と現在の自分を重ねるショットはこうした構図を象徴する)

なお、3DCGアニメーションが演出の一部として2Dアニメーションを用いる描写は、近年のディズニー/ピクサー作品でもみられる。(『モアナと伝説の海』のタトゥー、『リメンバー・ミー』の切り絵など)
本作も含め、「現実(物理法則に支配された3次元世界)を志向する3DCG」ー「物理法則に縛られない表現が可能な2Dアニメーション」の二項対立は崩れていない。しかし、3DCGにベースを置いているからこそ、2Dアニメーションを良い意味で客体化し、芸術・メディアとしての特性を強調することができているのではないかとも思う。

また、フェイフェイの店の看板商品である月餅をはじめ、料理の描写が緻密で非常に美味しそうなのも印象的だった。
3DCGアニメーションと中華料理ということで、ピクサーの『Bao』(『インクレディブル・ファミリー』併映の短編)も思い浮かんだ。粉を使うことや「照り」など、質感が様々である点や、出来上がりの彩りが豊かな点が、3DCGで表現する上でやり甲斐があるのだろうなと思う。

なお、本作はNetflixで観たのだが、エンドロール後の各言語への吹替クレジットが5分ほどもあり、全世界に配信されていることや、多様な鑑賞者に向けた作品づくりの重要性を改めて感じた。

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