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坂口恭平とリヒター

少し前にゲルハルトリヒターの展覧会へ行った。(こちらの記事は別途書こうと思っているので、一年くらいはゆっくりとまっていてほしいです。)

その時彼の作品の中にフォトペインティングという作品があった。
この作品は写真を模写したり、新聞の記事を模写したりする作品群のことを指す。
時には個人的な家族の写真を模写したりしている。

坂口恭平も同様のことをしている。
坂口恭平は日常の風景を切り取ることで個人的な景色、風景、ものを作品としていることが少し違うだろうか。
また、リヒターは主に油彩、坂口恭平はパステルを使って作品作りをしている。

けれど両者には決定的な違いがある。
リヒターは写真を極限まで似せることで見せ方、見え方の違い、またそこから
写真という複製可能なものとアートという複製不可能(実際には可能かもしれないが、油彩なら微かな色ののり具合とかが違ってくるため、不可能とした。)なものこれらがどう違うのか、本物とはなんなのかを考えるために作品を作っている。
また、これらの作品群を私たちが、見ることで何が本物なのかを問いかけている。

坂口恭平は模写しているようで模写していない、(ご本人はどう思っているのかはわからないが)私はそんな印象を受けた。
なんでそのように思うかというと写真は撮っているが、絵を描くためのヒントであってその景色を見たままを描こうとしているからだと思う。
写真には大気の状態までは映り込まないはずなのにそれを感じることができる。
そういった感覚を絵に載せる載せないというのが大きな違いだとも思う。

しかし両者には似ている点もあって、近づいたらそれが絵だとわかる。
逆に離れてみると写真にも見えるのだ。

ただ坂口恭平の絵はあるところで抽象画にも見える瞬間があるのがとても面白い。
そのほかの風景画に対しては綺麗だな、と思うことはあってもスッと入ってくることはなかった。ただ坂口恭平の作品を見た時にはスッと入ってきた。
それは私が抽象画が好きだからなのか、はたまた、もっと別のところにあるのかはわからないが、安心するそんな素晴らしい絵だと思う。
どちらがいいとかそんな話ではないことだけわかっていただけたら嬉しい。

私は実はリヒターの展覧会には3回も行った。そこで絵について考えることの面白さを知ったし、アートは社会風刺でもあり、記憶装置、トリガーにもなり得ると思った。

また、坂口恭平の展覧会には3月にいく計画を立てている。
とても楽しみだ。私は彼の著書、躁鬱大学がなければ死んでいたのかもしれない。
(死ぬことはなかったかもしれないが自信を俯瞰する事ができていなかったので、躁鬱をより拗らせていたと思う。)
それぐらい大きな影響を与えてくれた。あと半月頑張りますよ!

手法は同じでも画材の違いであったり、写真と私たちの視覚情報の違い、また私たち自身の感覚、考え方で絵は、絵や写真やアートはさまざまな考えを思い起こしてくれるとともに、感動も与えてくれる素晴らしいものであると思った

こちらを締めの言葉としたい。

豊田市美術館、坂口恭平さん、ゲルハルト・リヒターには大きな感謝を伝えたいです。
ありがとう!!

それではまた




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