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月の砂漠のかぐや姫 第143話

 冒頓たちが集まっていたのは広場の真ん中に当たるところでした。ここであれば、落石にあった岩壁からは離れていますし、反対側の崖下に落ちる心配も要りません。また、踏独が立てた見張りのお陰で、岩陰からの不意打ちの警戒もできています。もう夜のとばりも落ちてきていることですし、冒頓はこの場所を野営の場所と決めて、その準備をするのと同時に、隊の被害の状況の確認や怪我をした者への治療などを行うつもりでした。
 野営の準備のまず最初に、乾燥させた駱駝の糞などをくべた小さな焚火が作られました。焚火の脇には冒頓が座っていて、その元に隊の主だった者が続々と集められてきました。
 冒頓の元にやってきた者は、全ての者がそろうのを待たずに、到着したものから次々と、自分の担当する部門の被害の報告をしました。これは、隊全体で情報を共有することよりも、隊を率いる者であり今後の行動の判断をする者である冒頓が速やかに情報を集約できることを、最も大切なこととしているからでした。
 冒頓は上がってくる報告に真剣な表情をしながら耳を傾け、時折り頷いていました。
 幸い、「荷を積んでいる駱駝にこだわらずに、壁際に避難することで自分の身を守るように」との冒頓の指示が早かったので、落下してきた砂岩のために命を落とした隊員はいないようでしたが、それでも、多くの隊員が酷い怪我を負っていました。さらに、残念なことに駱駝を壁際に寄せることまではとてもできなかったので、落石に打たれて死んでしまった駱駝や、激しく興奮し走り出したせいで背中の荷ごと崖下に落下してしまった駱駝が、何十頭もいるようでした。これは、とても大きな損害でした。
 多くの報告を受け、焚火の周りに隊の主だった者が集まったころに、冒頓の表情が変わりました。
「そういや、羽磋や王柔の姿が見えねえな。あいつらにもここにいてもらわないと困るんだが」
 羽磋はどうしているのでしょうか。隊の主だった者の集まりに対して、自分は正式な護衛隊の隊員では無いということで遠慮して、見張りにでも立っているのでしょうか。それは、いかにも生真面目な羽磋がするようなことだと、冒頓は思いました。
 でも、冒頓は彼の生真面目さや芯の強さを非常に気に入っていて、この短い期間で彼を弟のようにさえ思うようになっていました。隊のみんなからも羽磋は一目置かれているようですし、この場にいてほしいところです。それに、月の巫女や精霊に関する力が、このヤルダンで起きている不思議にかかわっていることは間違いないようですから、もう羽磋が部外者であるとは言えないのです。
 また、王柔はと言えば、彼はヤルダンの案内人ですから、これからのことを決めるためには、彼の助言が必要になります。彼がこの場にいないことは、冒頓にとっては「呼ばれずともここに居ろよ」と、苦々しくさえ思えることでした。
「ぼ、ぼ、冒頓殿ーっ。大変ですっ」
 その時、大きな声をあげながら、苑が焚火の炎が光を投げかける環の中に飛び込んできました。揺れ動く光に照らされた苑の顔には、今までに彼の顔に現れたことがないような、深い心配が浮かんでいました。
「なんだ、小苑。今はまだ報告を受けている最中だぜ」
 冒頓は、苑に対して厳しい声を出しました。成人の価値を大切にする遊牧民族の間では、このような場に未成人が参加することはありえません。如何に冒頓が可愛がっている苑であってもそれは同じでした。もっとも、苑もそのことは十分にわかっているはずなのですが、一体何があったというのでしょうか。
「す、すみませんっす。でも、大変なんです、羽磋殿が、羽磋殿がっ」
 急に涙をこらえるような表情になりながら、苑は叫ぶように答えました。
「なんだとっ。羽磋がどうしたっていうんだ! 羽磋は見張りにでも立ってんじゃねぇのかっ」
 苑の言葉が、冒頓が持っていた不安を刺激してしまったのでしょう。彼の言葉は敵に投げつけるもののようにとても鋭く、苑はすっかりすくみ上ってしまい、小さな声を絞り出すのがやっとになってしまいました。
「それが・・・・・・、違うんっす。見てた人がいるんっす・・・・・・」
「なんだとっ? ああん、見てだとおっ」
「ひ、ひぃっ、はい・・・・・・」
 冒頓のいらだった声に打たれて、苑はいつも以上に小さくなってしまいました。
 その時、苑の走ってきた方から、息を切らしながら男がやってきました。彼はどうやら背中を痛めているようで、痛みに顔をしかめ脂汗を浮かべながら、できるだけの速さで集合場所へ向かってきていたのでした。
「ふいう、冒頓殿、すみません。はぁはぁ、私です。交易隊の兎歯(トシ)です。私が、見ました」
 護衛隊と交易隊の主だった者の集まる環に入る前から、兎歯は声を出しました。息をするだけでも、胸や背中に切りつけられるような痛みが走るのですが、冒頓の前で小さく固まっている苑が焚火の光で浮かび上がっているのを見ると、可哀そうで声を出さずにはいられなかったのでした。




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