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月の砂漠のかぐや姫 第194話

「く、くそ・・・・・・。まただ、もうっ」
 それは砂が周囲にぶわっと舞い散るほど勢いのある転倒で、顔や体に大きな傷ができていても不思議がないほどでしたが、羽磋は体のどこにも痛いところは無いというように、直ぐに上体を起こしました。そもそも、痛みなど感じている余裕が羽磋にあるはずはないのでした。ずっと心の中でしか話すことのできなかった想い人が、正に目と鼻の先にいるのですから。
 砂の上に倒れ込んだ状態から立ち上がるのもまどろっこしく思えた羽磋は、そのまま這って進もうとしかけたのですが、直ぐに頭を振りながら立ち上がりました。どう考えても、立ち上がって走った方が速いに決まっているのではないでしょうか。でも、一瞬とは言えそのような判断ができなくなるほどにまで、彼の気持ちは急いて、また、舞い上がっていたのでした。
 オアシスは、もうすぐそこでした。
 夜とはいえ星月の光を反射してうっすらと輝いている砂上から、にゅっと立ち上っている数本の細い黒影。それはナツメヤシの木です。その隙間から見える漆黒の一面は、オアシスの湖面でしょう。
 「あっ」と、羽磋は息をのみました。
 ナツメヤシの木の影の間で、小さな黒い影が動いたのです。その影は、まるで木の幹に隠れながらこちらを窺っているかのように動いていました。ひょっとしたら、自分の声があちらに届いていたのかも知れません。そうです、きっとそうに違いありません。自分の声が輝夜姫に届いていて、それがどこから来た声なのか、輝夜姫が確認しようとしているに違いありません。
 小さな黒い影の動きをその様に感じ取った羽磋は、自分の体の奥底から、震えるほどの嬉しさが込みあがってくるのを感じました。それと同時に、今更ながらなのですが、あれほど深く傷つけてしまった彼女に会って話をすることへの恐怖も、形となって沸きあがってきました。あの時の輝夜姫の顔を思い浮かべると、羽磋は心の中が黒くて苦い何かに焼かれるようで、意味もなく大声を上げたくなりました。
 でも、どれだけそれが恐ろしかったとしても、羽磋は輝夜姫に謝りたかったのです。もちろん彼女に許してもらえればとても嬉しいのですが、許してもらうために謝るのではないのです。自分が彼女に対してとても悪いことをしてしまった、そう思うから謝りたいのです。自分は本当は彼女を悲しませるようなことを思っていないのだということを伝えて、できることなら彼女に再び笑顔になってほしいから、前へ進むのです。
 ですから、彼が覚えた恐怖はとても大きいものでしたが、彼女にやっと謝ることができるという一種の安堵を消し去ってしまうほどの力は、持ってはいなかったのでした。
「俺だよ、羽磋、いや、羽だよ。輝夜、やっと会えた、輝夜っ」
 羽磋は、成人としての名前ではなく、幼名である「羽」と名乗って、呼びかけました。大伴に成人として認められ「羽磋」という名を贈られてから、そのまま旅に出てしまっていたために、自分の口からそれを輝夜姫に伝える機会がなかったからでした。思い返してみれば、羽磋が「羽」と呼ばれ、輝夜姫を「竹」と呼んでいたあの時から、ほんのわずかな時間しか経っていないのに、なんと大きな変化が二人を訪れていたのでしょうか。
 「羽」は父である大伴から正式に成人として認められて「羽磋」となりました。「竹」は羽磋から贈られた「輝夜」という名前を受け入れて、それを二人だけの秘密としました。乳兄妹としていつも一緒だった二人なのに、輝夜姫を宿営地に残して羽磋は旅立ちました。輝夜姫が月の巫女の宿命に飲み込まれて消えてしまうことのないように。自分たち月の民と同じように、故郷である月へ彼女を還すために。そして、それだけでなく、広い世界を見るという輝夜姫の夢を二人で果たすために。
「輝夜ーっ。羽だあーっ」
 もう一度、羽磋はありったけの思いを込めて、オアシスに向かって叫びました。
 「羽」と名乗ったからでしょうか、オアシスの小さな黒影にも動きがみられました。ナツメヤシの木陰を動き回っていろんなところから顔を出して、辺りを窺っているようでした。
「確かに、こんな夜の砂漠で急に呼び掛けられるなんて、輝夜が不思議に思ってもしかたがない。それも、急に居なくなってしまった俺からだ。だけど、俺はここにいる。ここにいるんだよっ」
 羽磋には、小さな黒影が戸惑っているように思えました。でも、その気持ちもよくわかるような気がしました。輝夜姫にとってみれば、自分はあの出来事の後に突然にいなくなってしまったのです。
 きっと彼女は、自分がなぜいなくなってしまったのか、その理由は聞かされていないでしょう。それを話すことができるのは大伴だけですが、過去に弱竹姫を失い心に大きな痛手を負った大伴は、竹姫に月の巫女としての重荷を背負わせたくないと考え、月の巫女の力について話すことを避けてきたのですから。
 その急に消えてしまった自分の声がこんなところで不意に聞こえてきたとすれば、輝夜姫が不思議に思わない方がおかしいとさえ言えるのではないでしょうか。





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