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月の砂漠のかぐや姫 第191話

 王柔が必死に水をかく先では、大きな茶色の塊が波間に浮かんでいます。その塊は、駱駝のコブが水面から顔を出している姿でした。
 駱駝のコブには水が入っているとよく言われます。それが嘘か真かはわかりませんが、どうやら水に浮かぶことは確かなようです。それは、まるで大きなナツメヤシの実がぷかぷかと水に浮かんでいるかのように、激しい川の流れの中でも全く沈むそぶりを見せていませんでした。
 羽磋は泳ぎ着いた駱駝のコブにしがみついていましたが、その安定した浮力は彼の身体を十分に支えてくれていました。これならきっと理亜の身体も支えてくれるはずです。羽磋は、近くまで来た王柔に、早く理亜を駱駝の背に乗せるようにと叫びました。
「わかりましたぁ。それ、理亜ぁっ」
 激しい流れの中を泳ぎながらのことですから、意識を無くしてぐったりとしている理亜の身体を駱駝の体の上に押し上げるのは、とても難しい作業でした。でも、駱駝の体はコブの浮力のお陰で安定して水上にあります。理亜が溺れないようにするためには、駱駝の背の上に押し上げるしかありません。王柔と羽磋は、自分たちは何度も水を飲みながらも、協力してなんとかそれを成し遂げました。
 また、王柔に対して理亜の身体が落ちないように支えて置くように頼むと、羽磋は急いで駱駝の口元から水上に長く伸びていた引綱を回収しました。そして、それを使って駱駝の体の上に理亜の身体を固定しました。さらに、流れの中で離ればなれにならないように、自分たちの体にもそれを巻き付けました。
 それはいきなり放り込まれた川の流れの中で自分たちの命を守るために必要な措置でしたから、羽磋たちは全ての意識と力をそれに集中していました。そのため、彼らの頭の中に「どうして理亜の身体に触れることができるんだろう」なんて疑問が起きることは、全くありませんでした。
 ドドゴオオ・・・・・・。ゴゴゴオッ・・・・・・。
「羽磋、殿っ」
 岩壁の暗渠の中で水が上げる轟音が、増々大きくなってきていました。羽磋たちが理亜を駱駝の背の上に助け上げている間にも、彼らはどんどんと下流に流されていました。既に川が流れ込んでいる岩壁の穴は、直ぐ近くにまで迫っていました。羽磋たちよりも先に流されていた荷の一部などが、次々と岩壁の暗い穴の中に飲み込まれていきました。
 この岩壁を上に登っていくと、開けた広場になっています。岩壁に刻まれた交易路を抜けた冒頓たちの護衛隊が、この日の夜を過ごすために野営を行うことになる広場です。ただ、川を流されている羽磋たちに今見えているのは、自分たちの上に覆いかぶさってくるように迫ってくる岩壁だけでした。
 駱駝の引き綱を自分たちの身体に巻きつけることで、なんとか一つにまとまることができている羽磋たちでしたが、渦巻く水が上げる轟音に掻き消されてしまいそうで、王柔が直ぐ近くにいる羽磋に話しかける際にも、できるだけの大声を出さなければいけませんでした。
「この先っ、どうなって、いるんでしょうかあっ」
 ゴゴゴオオオオッ・・・・・・。
 ゴゴオオ。ドドドッ・・・・・・。
「わか、りませんっ。理亜の身体を、はなさ、ないでっ」
 ドドッゴゴゴオオオ・・・・・・。
「もち・・・・・・」
 ゴオオロオオオオオ・・・・・・。
 ドドオドッ・・・・・・。
 あまりにも川の流れが激しいため、羽磋たちはその流れに逆らうことができません。なんとか水中に引きずりこまれないように、それに、それぞれがばらばらにならないように、それだけで精一杯でした。
 自分たちを結び付けている引き綱を握りしめつつ、少しでも理亜の身体を水面から遠ざけようと押し上げる羽磋と王柔。彼らの視界の中で、川の両側の岩壁の茶色が、空を彩っている濃い青が、すさまじい速さで流れていきます。
 そして、突然。
 彼らの視界の全てが、漆黒に塗り潰されました。
 激しい川の流れと共に、彼らは岩壁の暗い穴の中に飲み込まれてしまったのでした。
「ああ、真っ暗だ、うわぁ」
 動揺した王柔は激しく叫びました。
 ゴオゴゴオオオ! ゴオオオゥウウッ!
 ドドオッ。ゴオドドドドゥ!
 岩壁の中では、外で聞いていた以上に川の流れる音が激しく反響していて、王柔は自分があげた大きな叫び声を聞くこともできないほどでした。
「王柔殿、どうなるか、わかりませんっ。理亜をっ、しっかりとっ」
 羽磋のその声も、轟音に掻き消されました。
 たとえ月が出ていない夜でも、目が慣れてくれば星の光を頼りにして、物の姿形ぐらいは見分けることができます。
 しかし、この川が流れ込んだ岩壁の洞窟を埋め尽くしていたのは、完全な闇でした。
 川はその闇の中を、時には勢いを増し、時には向きを変え、また、時には何物かにぶつかって激しくしぶきを上げながら、流れていきます。羽磋や王柔たちは、自分が目を開けているのか目をつぶっているのかもわからない状態の中で、力の限り駱駝の引き綱にしがみ付いていました。
 もう、流れに身を任せるよりないのです。このような時にこそ、精霊の加護を祈るべきなのでしょうが、あまりに絶え間なく、それも激しく身体が突き動かされるために、羽磋も王柔もそれに意識を向けることすらできないでいました。
 どれだけ流されたのでしょうか、その感覚もありません。それでも、ようやく「この後どうなるのだろうか」と考える間が羽磋に訪れました。
 その時のことです。
 ふわっと彼らの体が浮きました。
「あああぁあっ」
「うわぁぁぁ、落ち、落ちるっ!」
 真っ暗な洞窟を轟音と共に流されてきた彼らは気付くこともできていなかったのですが、この洞窟の中で川が大きく落下している、つまり、滝のようになっている部分があるのでした。彼らはその滝の部分に差し掛かったのでした。
 羽磋は。王柔は。そして、駱駝の背に縛りつけられた理亜は。
 洞窟を走る黒い川から闇で満たされた空間に放り出され、前後上下もわからぬまま落下していくのでした。




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