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月の砂漠のかぐや姫 第117話

「ヤルダンが、ヤルダンが見えるのです、この先にっ。まだ、あるはずがないのに、です。何かがおかしいのです。気を付けてくださいっ。おかしいのです」
「ヤルダンが、か。よし、聞いたか、小苑。王柔が指す方だ、頼むぜっ」
 冒頓は、興奮して混乱気味の王柔の言葉を、疑いもせずに受け入れました。そして、自分の傍らにいる苑に対して、飲み物を取ってくれとでもいうような軽い物言いで指示を送ると、一転して、大声を張り上げました。
「おいっみんなっ。お客さんが来るかもしれないぜっ! 交易隊は一塊になってゆっくりと進め! 護衛隊! 徒歩のものは、その外側で警戒! 相棒がいる奴は騎乗!」
 ピーッ! ピーッ!
 冒頓の指示の下で隊形を整える交易隊と護衛隊。そして、彼らが巻き上げる砂埃の中から鋭い指笛の音が飛び、オオノスリの空風が前方に向って飛んでいきました。
 王柔が行った冒頓への報告の言葉をきっかけに、その場の雰囲気は、ただ交易路を進む単調で穏やかなものから、何者かに襲われるかもしれないという緊迫したものへと、急速に入れ替わっていきました。
 その変化は、息を切らしながら報告を届けた王柔自身でさえ驚くような、激しいものでした。冒頓には、「ひょっとしたら王柔の報告が間違っているのでは」という疑念は、起きないのでしょうか。
「ぼ、冒頓殿っ。こんなに警戒の体制を敷いて・・・・・・、もしかして、いや、何かがおかしいのは、間違いないんですけど、それにしても・・・・・・」
「あぁ、なんだ? 王柔、お前の報告は間違っているのか?」
「いいえ、そんなことはないですっ。僕は確かに見ました。ヤルダンの奇岩が、まだそれがあるはずのないこの先に、転がっているのを」
 そのひょろっとした外見と弱々しい口ぶりから、自分の指示が案内をする交易隊の人達に軽く受け取られることに、いつの間にか王柔は慣れてしまっていました。
 それなのに、あるはずもないものを見たという俄かには信じがたい報告なのに、冒頓は王柔の言葉を、きっちりと信頼して受け止めてくれたのでした。
「なんだ、王柔、そんなに目をキラキラさせて、見上げやがって」
 既に自分も馬上の人となっていた冒頓は、さも不思議そうな顔をして、王柔を見下ろしました。
 この男にしては、これが当たり前のことだったのです。
 自分が一度信用した者はとことん信用する。それが冒頓でした。そして、その反面として、自分を裏切った者は地の果てまでも追いつめ、この世に生を受けたことを必ず後悔させる。そのような激しさも併せ持つのが、冒頓という男なのでした。
 冒頓は、口では王柔のことをからかいもし、その考えの浅いところを指摘もしますが、ヤルダンの案内人としての彼の仕事に関しては、信用を置いていたのでした。それは、過去に小野の交易隊に案内人としてついた、王柔の仕事ぶりを見ていたことがあるからでもありますが、なによりも、自分が一目置いている王花という人物が、王柔を一人前の案内人と認めている事が大きいのでした。
「いえ、僕の報告を、こんな風に疑いもなく信じてくれるなんて・・・・・・。ありがとうございます、冒頓殿」
「なんだ、お前、俺のことをどう思ってたんだよ。おれは優しい隊長殿だぜ。ハハハッ」
 王柔の言葉を軽く笑い飛ばして見せた冒頓は、もちろん彼の気弱な性格も知っていました。その人自身を信じる信じないというところとは別の問題として、この報告が、彼の弱気が見せた見間違いということもあり得ます。それは、一団を率いる隊長として、考えに入れておかなければならないことです。
 でも、それがどうしたというのでしょうか。このまま、何事もなく時間が経つようであれば、ただ単に警戒を解けばそれで足りるのではないでしょうか。
 逆に、もしも王柔の言葉を軽く見て、万が一にでも護衛隊や交易隊に大きな損害を受けるようなことがあれば、それも命にかかわるようなことがあれば、取り返しがつかないのではないでしょうか。
「死んだら終わりだから」
 その言葉を口癖とする冒頓は、性急に物事を進めたり、考えなしに行動を起こしたりする人物と見られがちでしたが、その腹の奥底には、予め行われたとても合理的な割切りが存在しているのでした。

 ゴビの赤土の上を進む白いスナヘビのようだった隊列は、冒頓の命令に従って固まって一枚の木の葉のようになりました。しかし、彼らはその場所に留まるのではなくて、そのまま、ゆっくりと前進を続けるのでした。
 彼等の目的は、ヤルダンに何かが起きているのであれば、それを調査し解決することでした。そして、それに加えて、ヤルダンを通り抜けて、羽磋を吐露村へ送り届ける事でした。こんな風にヤルダンに入る前から何かが起きることまでは考えていなかったものの、ヤルダンに向って進まないわけにはいかないのでした。
「どうだ、小苑」
 冒頓は、交易隊の行く先の空の上を、右から左へ、あるいは、手前から奥へと、オオノスリの空風が何度も往復している様子を見上げながら、苑に確認をしました。
 額の上に手をかざして光を遮りながら相棒の動きを観察していた苑は、顔を動かさないままで冒頓に答えました。二人の横では、理亜の乗る駱駝の轡を取っている王柔が、緊張した面持ちで馬上の二人を見上げていました。
「うーん、空風の動きからすると、特に誰かが潜んでいるとかいうことは、なさそうな感じっす、冒頓殿」




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