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月の砂漠のかぐや姫 第195話

 羽磋は走るのをやめて、ゆっくりと歩いてオアシスに近づくことにしました。そうすれば、星月がもたらす光によって少しずつ自分の姿が明らかになるでしょう。それは、ナツメヤシの陰から辺りを窺っているであろう輝夜姫を怖がらせることが無いようにという、羽磋の配慮でした。
「ごめんな、急にこんなところに現れて。だけど、心配しないでくれ。旅に出ていたんだ、俺。それで・・・・・・、ん? あれ。あれぇ?」
 輝夜姫に話しかけながら、冷たい砂を踏みしてゆっくりと前へ進んでいた羽磋でしたが、その途中で声が裏返ってしまいました。目の前でとてもおかしなことが起きていることに気が付いたからでした。
 少しずつとは言え、自分は確実にオアシスに近づいていっているはずです。それなのに、ある程度の大きさを限界として、それ以上はオアシスの影が大きくならないのです。そのため、ナツメヤシの幹の陰からこちらをじっと見つめている小さな黒影も、それが本当に輝夜姫の影なのか、はっきりとはわかりません。まるで昼間の砂上に生じる蜃気楼であるかのように、羽磋が進むのに合わせてオアシスの影が逃げていっているのでした。
 始めは自分の勘違いかと思っていた羽磋も、歩く時間が長くなるに連れてそれがはっきりとわかってきました。輝夜姫に早く会いたいと気持ちが急くのを何とか抑えて、彼女を驚かせないようにゆっくりと歩いていたのに、それをあざ笑うかのように遠ざかる影に、羽磋はいらだちを隠せなくなってしまいました。とうとう彼は我慢ができなくなって、再び走り出してしまいました。
 ザン、ザン、ザンッ。
 大きく砂を後ろにはね上げながら、羽磋は走ります。ゆっくりと歩いていたこれまでとは全く違って、羽磋の体はぐいぐいと前に進んでゆきます
 でも、羽磋はオアシスに辿り着くはできませんでした。やっぱり、その影は少しも大きくならないのです。羽磋の後ろには、彼が砂を蹴った後が長く残っているというのにです。
「くっ、どうして・・・・・・」
 ザン、ザン、ザン、ザン、ザン、ザンッ。
 羽磋は、自分のできる限りの全力で走ります。でも、不思議なことに体はちっとも熱くなりません。少しも汗は流れません。これなら、もっと、もっと、速く走れるかもしれません。彼はさらに両手を大きく振って、少しでも早く前へ進もうと努力します。
 すると、どうしたことでしょうか。
 オアシスの黒影は、不意にその濃度を薄くして重さを感じさせなくなったかと思うと、すぅーと空気の中に溶け込んでいきました。ナツメヤシの木の影も、そして、少女の小さな黒影もです。
「え、そ、そんな。輝夜、輝夜あっ」
 だんだんと薄くなっていくオアシスの影の変化は、煙が風に撒き散らされて消えていく時の様にとても素早く、それが完全に消えてしまう前にそこへ辿り着こうと焦る羽磋がいくら柔らかな砂を蹴ろうとも、とても間に合いそうにありません。それでも、その影に手を掛けてこの場に留めようとでもいうかのように、羽磋は両手を差し伸べながら全力で走り続けました。
 はあっはぁっと大きな息を吐き出しながら走り続ける羽磋。最後には、またしても彼は、砂の上に倒れ込んでしまいました。
 倒れ込んだ勢いで全身に冷たい砂を浴びながら、羽磋はそれでもオアシスの影に呼びかけ続けました。
「待て、待ってくれ! 輝夜、お願いだから、待ってくれ。俺だよ、羽磋だよ。ここにいるんだ。頼むよ、輝夜。輝夜あっ!」
 もう、羽磋は立ち上がることはできませんでした。倒れ込んだ彼は砂上に左腕をついてなんとか上半身を起こすと、空気の中に消えていくオアシスの影に向って、真っすぐに右手を伸ばしました。大きく開いたその指の間から、すっかりと朧げになってしまった少女の黒影が見えました。
「輝夜ああっ・・・・・・」
 先ほどまでの大きな呼び声とは違った小さなしゃがれ声が、羽磋の口から零れ落ちました。その声には力がなく、すぐに砂漠の砂に沁み込んで消えてしまいました。
 そして、それに合わせるかのように、どんどんと薄まっていたオアシスの影は、完全に夜の闇に溶け込んで消えてしまったのでした。
 右腕を伸ばしていればその先に再びオアシスの影が蘇るのではと願うかのように、羽磋はしばらくの間その姿を取り続けていました。でも、羽磋がいくらしびれる右腕に力を込めて待っていても、その影はもう姿を見せてはくれませんでした。
「か、か・・・・・・」
 羽磋の喉の奥底から絞り出された声はあまりに乾ききっていて、彼女の名前を綴ることもできませんでした。


 やっと謝ることができると思ったのに。
 今まで言えなかったこと、ずっと言いたかったことを、ここで伝えられると思ったのに。
 いや、話などできなくても構わない。
 輝夜に、そう、ただ、彼女に会えると思ったのに。
 一目会える、それだけでもよかったのに。
 輝夜。
 輝夜。
 会いたかった。


 自分の身体を動かすことに集中するために心の奥底に押し込めていた感情が、一気に羽磋の体の中を駆け巡りました。砂上を少しでも速く走ろうとして全ての力と精力を使い果たした羽磋は、その感情の暴走に耐えることができませんでした。
 彼は起こしていた上半身を力なく砂上に横たえると、その冷たい感触を頬に感じながら、そっと目を閉じるのでした。





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