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月の砂漠のかぐや姫 第196話

「・・・・・・殿。・・・・・・羽磋・・・・・・。羽磋・・・・・・殿・・・・・・」
 羽磋の耳に自分の名を呼ぶ声が届きました。
 それは、遠い遠い草原の彼方から朝もやを透して微かに届く声のようでもあり、自分の耳元で叫ばれる大きな声のようでもありました。
 また、それは、朝露が木の葉から地面に落ちた時に生じる穏やかな音のようでもあり、急流が滝から落下する時に生じる激しい音のようでもありました。
 羽磋は、ひどく疲れていました。この声に意識を向けることさえもが億劫に感じられました。
 彼は薄暗い水中を漂っていました。目を瞑ったままで赤子のように体を丸め、泳ぐこともせずに、ただゆらゆらと漂っていました。もちろん、彼の身体そのものが水中にあるのではありません。外の世界から遮断された彼の心が、無意識という水の中を漂っていたのでした。
 このまま眠っていたい。もう誰にも会いたくない。はっきりとした形にはなっていないもののその様な思いが、彼をぐるりと包み込んで動けなくしていました。彼の内側と言えば、もう疲れたよ、そんな気持ちが身体の隅々までを満たしていました。
 でも、その呼び声の主は、彼を放っておいてはくれませんでした。
「羽磋殿、羽磋殿! しっかりしてください、羽磋殿っ!」
 再び聞こえた声は先ほどのようなあやふやなものではなく、もっとはっきりと羽磋の耳に届きました。それは男性の声で、とても大きな声でした。また、何かを非常に心配しているような緊迫した叫び声でした。
「ああ、この声・・・・・・。そう言えば、さっきの声もこの声だったような・・・・・・。どこかで聞いたことがあったような・・・・・・」
 羽磋の心がぷるんと震えました。その小さな震えは、彼を包み込んでいる形のない思いに働きかけて、その縛りをわずかに緩めました。
 さらに、どこからか加えられる力によって、羽磋の身体は激しく揺さぶられていました。身体・・・・・・、そう、身体です。羽磋は、自分に身体があることを思い出しました。
 羽磋は身体に力を込めました。丸めていた背筋を伸ばし、両手を広げました。すると、先ほどまで彼の身体をきつく包んでいた「眠っていたい、誰にも会いたくない」というような思いが、ぷつんぷつんと千切れて、無意識の水の中へと散らばっていきました。
 軽くなった身体は、羽磋の心の内側にも刺激を与えました。
「そうだ、そうだよ。俺は眠ってはいられないんだ。行かなくちゃいけないんだ」
 ゴボォ、ゴボボォ・・・・・・。
 羽磋の口から灰色の泡が吐き出され、幾つもの筋となって無意識の水の底に沈んでいきました。それは、再び活動を始めた羽磋の心が身体の内側から追い出した、「疲れた」、「もう嫌だ」という、鉛のように重い気持ちの数々でした。
「羽磋殿、羽磋殿おっ!」
 羽磋を呼ぶ声は、その灰色の泡が沈んでいった底の方ではなく、うっすらとした明りが見える上の方から聞こえてきていました。羽磋は、沈んでいく自分の暗い気持ちの方を一瞥すると、気持ちを切り替えるように勢いよく上に顔の向きを変え、その明りの方へと昇っていきました。


 そこは、不思議な空間でした。その空間では、ねっとりとした濃密な闇が、霧の中で光る月の光のような淡い青い光によって、壁の際や天井のすぐ下にまで押しやられていました。
 砂岩の壁に囲まれたその空間は、少なくとも数百頭の羊を囲っておけるほどの広さがありました。天井も砂岩でできているようでしたが、一部にとても高くなっているところがあるかと思えば、他の所ではとても低いところまで飛び出していたりと、複雑な形をしていました。
 そして、空間の下部は、少しの地面と多くの水面で占められていました。地面はやはり砂岩でできていました。水面の下にどこまでの深さがあるのかはわかりませんが、それがとてもたくさんの水を蓄えているのは、その広さから明らかでした。暗闇に隠された壁際の一部から川が流れ込んできているようで、その水面には常に波紋が一定方向へ走っていました。
 この川は、祁連山脈を源とするあの川でした。祁連山脈から湧き出す水を集めながら東から西に主に地中を流れ、ヤルダンの手前で地表に顔を出して交易路が刻まれた崖のすぐ下を走り、ヤルダンを支える台地の中へとまた流れ込んでいったあの川です。そう、交易路から落下した羽磋や王柔たちを下流へ押し流したあの川です。
 つまり、この上下左右を砂岩で囲まれた空間は、ヤルダンの地下に形成されている大きな空洞なのでした。
 交易路の崖下の狭い個所を水しぶきを立てながら激しく下り、岩壁にぽっかりと空いた大きな穴の中に流れ込んだ後には滝の様に大きく落下をした川の流れは、ここではずいぶんと大人しくなっていました。とりたてて大きな音を立てるでもなく静かに空洞の中の池を満たし、また何処かへと流れ出していました。
 いま、この空洞の中の空気を震わしているのは、水音ではなくて別の音でした。
 それは、池の脇でしゃがみ込んでいる長身の男が、地面に置かれている何かに向って叫ぶ声でした。
「羽磋殿、羽磋殿っ! 目を開けてください、羽磋殿っ」




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