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月の砂漠のかぐや姫 第197話

 長身の男とは、羽磋や理亜と共に交易路から川に落下し、激しい水の流れに飲み込まれてしまった王柔でした。そして、彼が必死になって呼び掛けている相手は、地面に横たえられている羽磋でした。
 交易路から落下して川を流されていったのは、王柔と羽磋それに理亜の三人だったはずです。小さな理亜はどこにいるのでしょうか。彼女は、王柔の背中に手を当てて、その体の陰から心配そうに羽磋を見下ろしていました。
 王柔たちは川の水の流れと共にヤルダンの台地の中へ入り込み、暗闇の中で川が滝の様に落下する箇所で、その衝撃の為に一度は完全に意識を失ってしまいました。でも、前もって羽磋が取っていた処置が、彼らの命を救ってくれたのでした。その措置とは、決して水に沈むことのないコブを持つ駱駝に、引き綱によって自分たちの身体を縛り付けていたことです。そのお陰で、彼らは意識を失った状態でも水面の上に顔を保つことができていたのでした。そうでなければ、滝から落下する際に意識を失った彼らは、激しい水の流れに巻き込まれておぼれてしまっていたことでしょう。
 彼らの中でもっとも早く王柔が意識を回復した時には、まだ彼らは水の上でした。川の流れがこの地中の大きな空間に到達して穏やかになったことから、王柔は自分たちを駱駝に縛りつけていた引き綱を解き、意識を失ったままの理亜と羽磋を地面の上へと引きずり上げていたのでした。
 今でも王柔の頭の上は全て暗い色をした岩で覆われていましたから、彼らがヤルダンの地下を通り抜けて外にまで流されていたという訳ではありません。でも、不思議なことに川の水が薄い青色に発光しているので、本来ならば真っ暗闇であると思われるこの場所でも、王柔は自分の周りを見ることができていました。ただ、今の彼には余裕が全くなかったので、自分が周囲の様子を見ることができていることの不思議には、全く気が付いていませんでした。
 また、力仕事には慣れていない王柔が必死になって羽磋と理亜を岸の方へと引きずっている間に、駱駝の方はゆうゆうと自力で地面の上に上がっていきましたから、上手く駱駝を先導することができれば、二人を駱駝の背に乗せたままで楽に水から上がることができたかもしれません。でも、とにかく一刻も早く二人を水から上げたいと焦っていた王柔には、その様なことにまで考えが回ってはいなかったのでした。
 地上に引き上げるときに掛かった強い力のせいか、理亜は王柔が呼びかけるまでもなく、ひとりでに意識を取り戻しました。理亜のぱっちりとした目が震えながら開き、小さな口が動いて自分の名を呼んだ時には、王柔は喜びのあまりに大きな声を上げ、さらには、羽磋の身体を引いていた手を放して、両手で理亜の身体を抱きしめてしまいました。理亜が生きている。王柔にとってこれほど嬉しいことはなかったのですから。
 とは言え、王柔はずっとその喜びに浸っていることはできませんでした。羽磋です。自分たちをあれほど助けてくれた羽磋は、未だにぐったりとしたままで意識を回復していないのです。王柔は、理亜の意識がしっかりとしたことを確かめると、彼女と協力をして羽磋の全身を水際から離れたところへ引き上げました。そして今、王柔は羽磋の意識を呼び起こそうと、懸命に呼びかけを行っているのでした。
「羽磋殿のお陰で、僕も理亜も助かりました。お願いです、羽磋殿も、しっかりしてくださいっ」
 王柔は、必死に羽磋の胸を押し、体をゆすり、声を掛け続けていました。長い時間水に浸かっていたせいでしょうか、わずかに薄い青色に輝いているようにも見える羽磋の胸は規則正しく上下していますし、その口からは吐息も漏れていますから、彼の命の火は消えていません。でも、羽磋の意識は、なかなか回復してくれません。
「このまま、羽磋殿は死んでしまうんじゃないか」
 王柔の心配はどんどんと大きくなっていきます。
 強い不安に駆られた王柔は、羽磋の頭の横に顔を寄せて、その耳元で大きく叫びました。
「羽磋殿、羽磋殿っ! 目を開けてください、羽磋殿っ」
 この時、羽磋の自我は、おそらく自分の内側に生じた世界、つまり、夜の砂漠を彷徨っていました。砂漠の中のオアシスに見えた少女の影を求めて、月夜の下を駆けていたのです。その少女こそは、自分の大切な存在である輝夜姫と羽磋に思えました。羽磋には、どうしても彼女に伝えたいことがあったのです。でも、彼女がいたオアシスは、まるで昼の砂漠に生じる蜃気楼のように羽磋の前から逃げて行ってしまい、輝夜姫と思えたその少女には会えずに終わってしまいました。
 日頃は活力にあふれている羽磋でしたが、この時ばかりは強い無力感に捕らわれてしまい、全てを投げ出してこのまま眠っていたいとさえ思ってしまいました。でもその時に、彼の耳に届いた呼び声こそが、この王柔の叫び声だったのでした。
 王柔が必死に叫ぶ声には、「羽磋に死んでほしくない」、「もう一度目を開けてほしい」という彼の熱い思いが込められていました。その言葉は、意識の海の中で羽磋の身体をぐるりと包んで動けなくしていた「目に見えない無力感」を、すっかり溶かしてしまいました。
「そうだ、そうだよ。俺は眠ってはいられないんだ。行かなくちゃいけないんだ」
 王柔の声から力を得た羽磋は自分を取り戻し、声のする方へと意識の海を昇って行くのでした。






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