月の砂漠のかぐや姫 第119話
ドドッドドドッ! ドドドッドドドッ!!
「うわ、なんだ。あれは・・・・・・」
「信じられん。こんなことがあるのか・・・・・・」
もう護衛隊の面々にも、自分たちに向ってきているソレが何かが、見て取れるようになっていました。
出発の前にあらかじめ、ヤルダンに何か不思議なことが起きているとは聞かされていたものの、実際に目に飛び込んできた異形のソレは、彼らの健康な心を激しく動揺させました。
砂煙をかき立てながら走ってくるソレは、やや黄色く日に焼けたゴビの赤土でできたサバクオオカミの群でした。もちろんソレは、生きたサバクオオカミではありません。サバクオオカミの形をした砂像なのです。どういう不思議な力が働いているのか、奇岩たちがその四肢で大地を蹴り、全身を大きく動かしながら、こちらへ向かってきているのでした。
サバクオオカミは、このゴビの砂漠で群をなして生息する獣で、交易隊や遊牧隊の者をたびたび悩ませる存在でした。ですから、彼等も、今ここで初めてサバクオオカミと出会ったわけではありません。
しかし、このような、目にするだけで、心をぎゅっと冷たい手で鷲掴みにされるような、恐ろしいサバクオオカミに遭遇したことは、今までに一度もありませんでした。
ソレは、砂や土でできているということは勿論ですが、その形そのものが奇妙なのでした。サバクオオカミの像ということはわかるものの、決して生きているサバクオオカミそのものを写し取ったものではなく、まるで子供が作り上げた粘土細工のように、大雑把で不格好なものなのでした。
異形。
その姿を伝えるには、これ以上の言葉は無いのかも知れません。
通常のサバクオオカミの群であれば必ず発する「ハッハッハッ」という荒い息遣いや、彼らの身体から立ち上がる湯気のようなものは、まったく見られません。
無音です。その群れの周りで響くものといえば、ソレらが大地を蹴る音だけです。
無機質です。サバクオオカミが発するであろう荒々しい生気などは一切感じられず、まるで夢を見ているかのようです。
あまりに非日常的なその光景は、弓をつがえ戦いに備えている護衛隊の各員が、だんだんと自分がどこにいるのかがわからなくなってくるほどでした。
誰かが身体を揺り動かして、「起きろよ、いつまで寝ているんだ」と、この悪夢から逃がしてくれたなら、どれほど安心できたでしょうか。
でも、そのような救いの手は誰も差し伸べてくれませんでした。
紛れもなくこれは、彼らが立っているゴビの大地と同じ、現実の世界に属する出来事なのでした。
「まだだ! まだ撃つなよ!!」
交易隊全体に、冒頓の指示の声が響き渡りました。護衛隊の者たちにとっては、その声にも、サバクオオカミの奇岩が持っているのと同じような、不思議な力があるように感じられました。もっとも、奇岩が持つ不思議な力は「恐怖」でしたが、冒頓の声が持つ不思議な力は「安心感」でした。
並みの指揮官が率いている隊であれば、まず、最も心の弱い隊員が恐怖に耐えかねて自分の矢を放ち、それをきっかけとして、ある者は攻撃をある者は逃亡をと、混乱を極めることになっていたでしょう。
サバクオオカミの奇岩の群は、直接ぶつかり合う前に、それだけの恐怖と違和感でもって護衛隊に対して攻撃を仕掛けていたのです。そして、その攻撃に対して、「耐える」ということは、最も効果的であっても、最も困難な対処法であったのでした。
あらかじめ聞かされていたとは言え、伝承の中でしか出会ったことのないような異形に遭遇した護衛隊が、狼狽したり混乱したりせずに、整然とソレを迎え撃つ体制を取っていられたのは、まさに冒頓に対する信頼感があってのことだったのでした。
「たしかに、いきなりアレに襲われたとなれば、王花の盗賊団の連中が壊滅したのも無理はないかもな」
額に手を当ててサバクオオカミとの距離を測りながら、冒頓は心の中で、そうつぶやきました。冒頓ほどの男にも、その歪な像から叩きつけられる恐怖と違和感は、充分に感じられていました。
それでも、彼はこの異形のサバクオオカミの群に、自分たちが呑み込まれてしまうとは、全く考えていませんでした。
それは、小野の交易隊の護衛として、これまでに様々な場所でいくつもの困難を乗り越えてきたという自負と、勇猛な匈奴の男で構成された隊へのゆるぎない信頼と誇りがあったからでした。
「よし、よし、もうすぐ、もうすぐだ・・・・・・。へへ、どうやら、あいつら、その頭ん中まで砂が詰まっているようだぜ。真っすぐに突っ込んできやがる」
ブツブツとつぶやく冒頓の傍らでは、羽磋と苑が息を凝らしながら彼の様子を見つめていました。苑の両手には、小さな銅鑼が握られていました。
わずかな時間、沈黙があったでしょうか。
次の瞬間、冒頓は叫びました。
「よし、いまだっ!」
ドーン、ドーンン、ドーンン・・・・・・。
冒頓の指示を受けた苑は、馬上で大きく銅鑼を鳴らしました。よく訓練されている彼らの馬は驚いた様子を見せませんでしたが、周囲に鳴り響いた力強いその音は、離れたところにいる交易隊の駱駝たちにさえ大きな驚きを与え、一斉に悲鳴のような大きな鳴き声が上がりました。
ド、ドドドドッ。ドド、ドドドド、ドドドドッ!
しかし、サバクオオカミの奇岩たちは、まるでそんな音など存在しなかったかのように、向かってきています。もう、一体一体の姿がはっきりと見えるようになっています。息を吐くことのないその口が、何かを喰いちぎるために大きくあけられていることまでもが、待ち受ける男たちの目に入るようになってきています。
その群れに向って・・・・・・。
「いけぃ!」
「ホラァ、ヨォッ!!」
シュウッ、シュゥゥゥーッ。シャシャシャ・・・・・・!!
耐え忍んだ重苦しい何かを吹き飛ばすかのような叫び声と共に、両側に広がった護衛隊の騎上から、無数の矢が放たれたのでした!
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