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月の砂漠のかぐや姫 第129話

「あなたは・・・・・・、誰、ですか?」
 今では自分の顔よりも大きくなって迫ってくる眼球、その中心にある黒い真円に映る男に、王柔は話しかけていました。その黒い海に浮かぶ細い青年は、見るからに心細そうに、自分の身体に両腕をぎゅっと巻き付けていました。その青年は、とても寒そうで、とても苦しそうでした。
「大丈夫ですか・・・・・・」
 誰だろう、この男は誰だろう。王柔はその男を知っていました。とても良く知っていました。でも、それが誰だか思い出せませんでした。ただ、彼はとても自分に近しい人です。きっと、とても親しい人です。
 王柔はもう何も考えることができなくなっていました。彼がさみしそう。彼が、彼が。
 自分の背丈よりもはるかに大きくなり、空の青さも建物の日干し煉瓦も全て隠してしまった少年の瞳の中に、その先行きの見えない真っ暗な深淵の中に、両手を伸ばしながら王柔は入っていこうとしました。
 おそるおそる踏み出された王柔のつま先がその瞳に触れようとした瞬間・・・・・・、なんの不安も帯びていない、ただ素直に相手に向って発せられた少女の声が、王柔の耳に入りました。
「こんにちは、あなたが精霊の子デスカ?」
「理亜?」
 王柔の心の目が精霊の子からわずかにそれたとたんに、彼が目にしていた恐ろしい怪異はすべて消えてしまいました。あの自分を飲み込もうとするほど大きくなった精霊の子の目は、最初から全く存在していなかったように、どこにもその痕跡は残っていませんでした。それに、いま自分の目の前で精霊の子に歩み寄っている理亜も、そのような恐ろしいものを目にした様子など、全く見せてはいませんでした。
「やあぁ! 君は僕を見てくれるようだね! 全く有難いよ」
 でも、精霊の子は王柔が何かとても恐ろしいものを目にしていたことを知っているとでもいうかのように、大人びた様子で肩をすくめると、まだ身をすくめたままの王柔とその横であっけらかんとしている理亜とを、意味ありげな様子で見比べました。
「なにしろ、ほとんどの人は僕ではなくて、自分の見たいものを見てしまうからね」
 精霊の子は、一体何を言っているのでしょうか。王柔は自分の心が困惑を通り越して、彼に対する怒りにまで達しようとしているのを感じました。彼の心の海では、鋭く尖った形の波が、いくつもいくつも大きく立ち上がっていました。
「どれだけ精霊の子が大きな力を持っているのか知らないが、失礼な言い方にもほどがあるんじゃないか」
 一つの大きな波が砕けました。
「自分より小さな子に見えるけど、精霊界に近いというその存在に敬意を表して、僕は自分が失礼なことをしないように細心の注意を払っているんだ。それなのに、なんだよ、そっちの態度は。それが年長者に対する態度なのか」
 二つ目の大きな波が砕け、白い水しぶきが心の海に広がりました。
「そうだ、あの恐ろしいものは、きっと精霊の子が僕に見せたに違いないぞ。そうだ、そうだよ。こっちは、精霊の子が示すどんな現れも見逃さないように気を付けながら、畏れ敬っているのに。僕にあんな恐ろしい思いをさせるなんてっ」
 ぐわっと、さらに大きな波が襲い寄せてきました。先ほどの怖い思いが、今度は怒りの原動力となって、大きな波を引き起こしているようでした。
 この時、冷静に考えることができなくなってしまった王柔は、自分と理亜の違いがどのようなものかに、気がつくことができていませんでした。
 王柔はこの場所を訪れる前から、精霊の子を敬うと同時にその力を畏れてもいました。そしてその反対に、彼の前に立つ自分には大きな不安を持っていました。彼の目に自分がどのように見えるか、自分が彼を怒らせるようなことをして、理亜のことを尋ねる機会が失われはしないか、それらが怖くて仕方がなかったのでした。
 その彼の感情が、精霊の子のキラキラと輝く目に襲われるという形になって現れたのでしたが、それは精霊の子に言わせると「彼が見たいものを見た」ということになるのでした。あるいは、そこには精霊の子が持つ力の影響があったのかも知れませんが、それを引き起こしたのは、あくまでも精霊の子ではなく王柔自身なのでした。
 一方で、理亜はといえば、精霊の子に会うのに不思議なほどに緊張や怯えを見せてはいませんでした。いまよりはむしろ、昨晩に王花の酒場の奥の小部屋で大人たちと一緒に話をしていた時の方が、緊張していたと言えるほどでした。
 ここは理亜にとって初めて来た場所であることは間違いないのですが、理亜の様子はまるで何度も遊びに来た友達の家にいる子供のようでした。
 理亜は精霊の子の言葉を理解しようと首をかしげましたが、良くわからないままそれを放っておくことに決めて、自分がここに来た大事な要件を話すことにしました。
「精霊の子の言うことを全てわからなくてもいい」、そのように思えること自体が、精霊の子とこの場所に気負わされていないということを示していました。



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