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「月の砂漠のかぐや姫」これまでのあらすじ⑩(第60話から第62話)

 匈奴といえば、数年前まで月の民と戦争をしていた、新興騎馬民族でした。月の巫女である弱竹姫の力を利用するという御門たちの策略によって、月の民は烏達渓谷の戦いで匈奴を打ち破りました。その結果、月の民と匈奴は、月の民を兄とし、匈奴を弟する和睦を結んだのでした。つまり、月の民が戦いに勝利したのでした。
 和睦のために匈奴から月の民に差し出されたものはいくつもありましたが、その一つとして、匈奴の単于の息子、すなわち、匈奴の次期指導者候補の一人である冒頓が、その部下と共に、人質として月の民に出されていたのでした。
 冒頓の場合の「出す」は、月の民の部族の間で行われる「出す」、つまり羽磋のような留学とは、わけが違います。さすがに牢に閉じ込めることまではしなくても、月の民全体の単于である御門の目の届くところに、彼らを留めておかなくてもいいものなのでしょうか。
 匈奴の男が交易隊の護衛をしていると聞いて羽磋が驚いたのも、まったく無理はないのでした。
 心の底から驚いた様子の羽磋に対して、小野は「これは単于である御門殿自身が了承していることだ」と安心させると、彼を促して天幕の外に出ました。
 宿営地では、野営の準備がすっかりと整っていました。中央では、獣除けのかがり火が焚かれ、周囲には乳酒が入った器と干し肉を手にした男たちが、思い思いの場所に腰を下ろしていました。その中には、先ほど話に出た匈奴の男なのでしょうか、頭布を巻いていない男も交じっているのでした。
「みなさん、聞いてください。こちらは貴霜族の羽磋殿です。我が肸頓族へ留学されるとのことで、我らの目的地である吐露村まで、同行していただくことになりました」
「羽磋と申します。よろしくお願いいたしますっ」
 おおっ、と応じる大きな声が、宿営地に響きました。
 その日から羽磋は交易隊の一員、とりわけ、護衛隊の一員として、肸頓族の根拠地である吐露村を目指して、交易路を西へと進むことになったのでした。


「どうかしたっすか、羽磋殿」
 苑の言葉で、羽磋は我に返りました。少しの間、自分がこの交易隊に合流した時のことを思い出して、ぼうっとしていたようでした。
 羽磋と苑は馬を降りると、冒頓の部下たちが野盗の死体を運ぶのを手伝いました。交易隊の本体が来る前に、そこかしこに倒れている野盗の死体を動かして、交易路を通りやすくするためでした。
 ぐったりとした肉の塊である死体を動かすのは、とても骨の折れる仕事でした。そのつらい仕事を何とかやり終えて道を開けたころに、交易隊の長い列の先頭が到着しました。
 羽磋たちは、河原の方へ降りて道を譲ると、交易隊が通り過ぎるのをじっと見守りました。
 砂壁と河原の間の細い道を、背に多くの荷を積んだ駱駝の群れが、川を流れる白い水のように、絶えることなく、でも、ゆっくりゆっくりと、通り過ぎていきました。
 この駱駝たちは、そして交易隊の人たちは、どこから来てどこまで行くのでしょうか。そして、先ほど目にしたように、匈奴という異民族はなんと苛烈な戦いを行うのでしょうか。
「冒頓殿。世界って広いんですね」
「ハッハハハハッ! 世界は広いっと来たか! 良いな、羽磋。俺はお前を気に入ったぜ。世界は広い、まさにそうだよな」
「あ、あれ、俺、今そんなこと言いましたか?」
 自分でも気が付かないうちに、羽磋は冒頓に対して、自分の中に芽生えた思いを素直に話していたのでした。
 冒頓は、戦いに敗れた匈奴から戦いに勝った月の民に対して、「人質」として出された男でしたが、月の民は彼を幽閉しようとはしませんでした。単于である御門の意向もあって、彼に月の民の良いところを吸収してもらって、匈奴が彼の代になった際に友好な関係を結ぼうと考えたのでした。
 冒頓は気が変わりやすく短気な性格ではありましたが、古い考えに固執しない一面も持っていました。人質という立場ではありましたが、御門の考えにより、かなりの行動の自由もありました。それを生かして、彼は積極的に月の民や他国の良いところを学び、自国をもっと良い国にしたいと考えていたのでした。
 冒頓は、どうやら、羽磋を気に入ったようでした。自分の部族を飛び出して、世界の広さを実感した羽磋の素直な言葉に、かつての自分を重ねたのかもしれませんでした。
「ところで羽磋よ、お前。人を殺したことはあるのか」
 冒頓にとっては、自分が気に入った者は、もう、自分の仲間でした。冒頓から、遠慮のない問いが、羽磋に対して発せられました。
「え、いいえ。ありません。もちろん、遊牧で家畜を屠ることはありますし、人と争ったこともありますが、人を殺したことは・・・・・・。先ほども、危ないところで、冒頓殿に助けていただきましたし」
「そうか。羽磋、俺は、お前を気に入った。お前はかなり生真面目な性格のようだ。だから言っておくが、しっかりと、前もって腹をくくっておけ。腹を決めるというのは、言うのは簡単だが、案外と難しいんだぜ。そして、いざというときは、迷うな。とにかく、死んだら終わり、だからな。」
「死んだら終わり、ですか。なるほど・・・・・・」
 羽磋は、冒頓の言葉を、自分の中にゆっくりと溶かし込むように、繰り返しました。
 自分が旅に出たのは何故か。竹を、輝夜姫を、助けるためだ。そのためには、人を傷つけることが、必要になることもあるかもしれない。そして、なによりも、その目的を達成するためには、生き抜かなくてはならない。確かに「死んだらおわり」なのだ・・・・・・。
「ありがとうございます、冒頓殿」
 羽磋は、冒頓に向かって深々と頭を下げました。彼が自分のことを心配して助言してくれたことが、とても嬉しく感じられたからでした。
「死んだら終わりだ。いざというときには、迷うな」
 この助言は、後に羽磋の命を助けてくれることになるのですが、それはまた、別のお話です。
 しゃべりすぎたことに照れてしまったか、冒頓は交易隊の先頭へと馬を走らせていってしまいました。羽磋は冒頓が走り去った方へもう一度頭を下げると、交易隊の一番後ろが到着するのを待って、最後尾を固めることにしました。


 交易隊が通り過ぎた後では、岩山の隘路はすっかりと静かになってしまいました。先ほどまで交易隊の男たちや彼らが連れた駱駝たちが、声を立て足音を響かせて通っていた赤土の通路では、今は風の精霊が砂を巻き上げて遊んでいました。
 交易路の横に放置された野盗たちの死体。彼らは白い頭布を巻いていて、月の民の男のように思われましたが、無事に月に還れたのでしょうか。
 ボフウウウ・・・・・・。
 風の精霊が彼らのもとを訪れ、問いかけました。もちろん、何の返事もありません。でも、風はそのようなことは気にはしないのでした。返事があろうがなかろうが。生きていようが死んでいようが。
 やがて、彼らの体が砂漠に住む獣の腹を満たすその時まで、風の精霊は、彼ら一人一人と共にあるのでした。





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