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月の砂漠のかぐや姫 第136話

 冒頓の考えが及ばなかった出来事が、ヤルダンの中で現実となってしまっていました。
 ゆっくりと大地に戻り始めた太陽の下で、母を待つ少女を先頭にした奇岩たちは、ヤルダンの中を貫いている交易路の上を東へと進んでいました。一方で、冒頓の指揮する交易隊は、ヤルダンの入り口に向って交易路を西へと進み始めました。
 もしも、精霊の波動を言葉として捉えることができる月の巫女がこの場にいたならば、きっと太陽の精霊が次のように感じていると、言葉にして伝えてくれたことでしょう。
「ああ、このまま行くと、夕刻ごろには奇岩たちと交易隊がぶつかることになる。どうにかして、今日だけは大地に帰ることを遅らせることができないものか。世にも奇妙なこの戦いを見届けたいものなんだが」と。
 

「さぁ、出発するぜ。行けるところまで西へ進んで、そこで今日は野営だ。夜はゆっくり休んで英気を養うとしようや。そして、明日の朝、ヤルダンへ突入することとしようぜ」
 一度そのように指針が決まれば、そこは経験を積んだ小野の交易隊と冒頓の護衛隊で構成された隊です。敷き布の上にこぼした乳のようにゴビの赤土の上に緩やかに広がっていた駱駝の群は、世話をしている者たちの手によって速やかに集められ、元の隊列に整えられました。
 その隊列の先頭には、理亜を乗せた駱駝の轡を取りながら王柔が立ち、彼の横には羽磋が立っていました。交易隊が荷を積んだ駱駝を引きながら歩く速さに合わせて護衛隊も行進することから、羽磋を含めた騎馬の護衛隊の者も、馬には乗らずにそれを引いていました。
 彼らは、再び交易路を西へ進み始めました。
 一度は退けたものの、冒頓が注意を促したように、サバクオオカミの奇岩の群に再び襲われる恐れは十分にあります。でも、人ではない奇岩には反応しないことがわかったため、オオノスリの空風の索敵を当てにすることはできません。
 そのため、先頭を歩く王柔や羽磋だけではなく、交易隊の外側を歩いている護衛隊の各員も、自分たちの視線が届く範囲に何か怪しいものがないかと、慎重に目を配りながら歩くこととなりました。それは、とても神経をすり減らす、大変疲れる行進となりました。
「くそっ、だんだんと見通しが悪くなってきやがったな」
 再出発してからしばらくたった頃、羽磋の横を歩いていた護衛隊の男が、イライラとしたように吐き捨てました。
 彼が言うように、交易路を西へ進むにつれて、周囲の様相が少しずつ変わって来ていました。
 これまでは、赤茶色のゴビの大地が限りなく広がっている中を、数少ない水辺や草地を縫うようにして、交易路が走っていました。大きな岩山や崖は、地上と空を区切る境界として遥か遠くに見えるものでしかなく、交易路周辺には大きな地形の変化はみられませんでした。だからこそ、サバクオオカミの奇岩の襲撃があった際には、「ここいらにあるはずがないヤルダンの奇岩が転がっている。何かがおかしい」と、あらかじめ気がつくことができたのでした。
 しかし、西へ進んでヤルダンが近づくにつれて、交易路は開けた場所だけでなく大きな岩山の間や谷底も通るようになり、その周囲には大小の砂岩の塊も見られるようになってきたのでした。
 ヤルダンとは、どこまで行っても変化が見られないようなゴビの荒れ地とは大きく異なり、限られた場所に幾つもの様相が入り組んだ、非常に複雑な地形でした。
 大きな岩棚が襞のように入り組んだ肌を見せ、それが数段にも重なっている場所もあります。また、開けた場所であっても、丘のような巨大な砂岩から人の頭ほどの小さな砂岩までが、そこかしこに不規則に転がっています。さらには、足元のところどころには大きな裂け目が口を開けていて、その底がどこにあるのかは見て取れません。
 風の精霊と水の精霊が、長い年月をかけてゴビの大地と砂岩を削って作り上げたものなのでしょうが、その制作の途中でどこかの悪霊がいたずらをしたのではないかと思わずにはいられないような気味の悪い暗がりが、ヤルダンの至る所に存在していました。
 そして、魔鬼城とも呼ばれるヤルダンそのものはもちろん、悪霊のいたずらはその外側の地形にさえも影響を及ぼしているようでした。
 遠くからは平地のように見えていたゴビの大地は、実は幾層にも重なっていて、ある時には交易路はその一番上を走り、ある時には中段や下段を走っていました。そのため中段や下段を歩いているときには、上段の層が壁となり、彼らの視界を遮るのでした。また、その層は貝殻のふちのように不規則な変化をし曲がりくねっていましたから、彼らが自分たちの歩いて行く先を見通すことも難しくなっていました。
 いつも以上に敏感になっている隊員たちは、自分たちの目が届かないところには、なにか良からぬものが潜んでいるように思えてならず、すっかりと神経を疲れさせてしまっているのでした。


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