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月の砂漠のかぐや姫 第187話

 突然自分のお尻に生じた強い痛みに驚いて真っすぐに駆けだした駱駝は、背中に理亜を乗せたまま、そして、引き綱に掴まっている王柔と羽磋を引きずったまま、切り立った岩壁の側面に刻まれた小道の縁から空中へと、勢いよく飛び出してました。
 ブオオッ。ウオゥツ・・・・・・。ブ・・・・・・?
 痛みから逃れたい一心でとにかく前へ進もうとする駱駝の脚は何度も回転をしますが、もはやそれは地面に触れてはおらず、前に進むどころか彼の体を支えることもできません。駱駝は、底知れぬ崖下に向かって一直線に落下していくのでした。
「イ、イヤァアッ・・・・・・」
 目をつぶって駱駝の背にしがみ付いていた理亜が、体が落ちる感触に驚いて大きな声を上げました。
「ああ、理亜、理亜! 手を離すなっ」
 理亜の悲鳴に王柔は答えますが、彼の体も理亜や駱駝と共に落下する途中で、どうすることもできません。理亜への心配が心の中一杯に広がりますが、ただただギュッと手綱を握るのみです。
 すると、その王柔の肩に触れるものがありました。羽磋の手です。子供の頃からその身の軽さにより「羽」と呼ばれていた羽磋が、自分が握っていた引き綱を素早く手繰って王柔に近づいてきたのでした。
 たとえ空中のような足場がないところでも、自分の力を受け止めてくれる何かがあれば、それを起点にして体勢を変えることができることを、オアシスの周りに自生する木に登ったりする遊びの中で羽磋は学んでいました。また、木の上から水に飛び込む際には、その木の下枝に当たらないように注意しなければならないことも、彼は良く知っていました。
 そこで、自分たちが空中に放り出されたと知った羽磋は、混乱に陥るのでなく自分にできることを素早く考え、それを行動に移したのでした。
 羽磋が握っていた引き綱を強く手繰っていくと、その先に繋がれている駱駝が自分の方に寄って来るのでなく、自分の体の方が駱駝の方へ近づいていき、王柔の肩に手を置くことができました。それは、自分よりも駱駝の方が遥かに重いからでした。そして、羽磋がさらに手綱を手繰ると、王柔と羽磋は理亜が掴まる駱駝に触れるところまで近づくことができました。
「掴まって、駱駝に! あぶないから! 掴まって! 上にっ上に!」
 羽磋は必死に叫びながら、駱駝の背にとりつきました。
「理亜、理亜ッ」
 ほんのわずかな時間に次々と起きる出来事にまったく考えが追いついていない王柔は、耳に届いた羽磋の声に素直に従い、手の届くところに近づいた理亜の体を護るように、その上から駱駝の身体にしがみ付きました。
 これらは正に一瞬の間に起きた出来事でした。落下したのが羽磋以外の誰であっても、このような動きはできなかったことでしょう。
 その次の瞬間、ガシンッという激しい衝撃が、彼らを襲いました。
 小道が刻まれている岩壁は、決してまっ平で垂直な壁ではありません。自然に出来た凹凸がそこかしこに見られました。そのために、岩壁の一番上から転げ落ちてくるサバクオオカミが丸く固まった塊も、途中の岩壁に触れて軌道が変わるものが多かったのでした。
 今、羽磋たちを襲った衝撃もそれによるものでした。羽磋が心配していたように、小道から谷底へ落下する途中で、彼らは岩壁の張り出している部分に激突したのでした。
 「ヒイイイッ」っと、大きな叫び声が駱駝の口から飛び出ました。
 必死の思いで駱駝の背にとりついた羽磋たちを精霊が護ってくれたのか、岩壁に激突したのは下側に位置していた駱駝の体だけで、その背にしがみ付いていた羽磋たちは、幸運にも岩に直接ぶつかることを避けられました。もしも、羽磋が引き綱を手繰って王柔と共に駱駝の背に取り付いていなければ、駱駝でなく彼らが岩壁にぶつかるか、あるいは、岩壁と駱駝の間に挟まれるかして、命にかかわるような酷い怪我を負っていたところでした。
 それでも、しがみ付いていた駱駝が岩壁にぶつかった衝撃はとても大きく、岩壁から弾かれて勢い良く回転する駱駝の背から理亜の手が離れてしまい、彼女の体は空中へ飛び出していこうとしました。理亜に覆いかぶさりながら駱駝の背に掴まっている王柔は、自分の体の下から理亜の体が飛び出していこうとするのを感じるのですが、彼自身もその激しい衝撃を受けていて、とても自分が駱駝の体毛を掴む力だけで理亜の体が飛び出すのを留めることはできませんでした。
「ああ、アッ・・・・・・」
「理亜、あ、う、危ないっ」
 王柔は、自分の体の下から空中に飛び出していこうとする理亜の小さな体を、とっさに両手で抱きかかえました。もちろん、駱駝の背から手を放してです。王柔と理亜の体は、駱駝から離れてしまいました。
「王柔殿、大丈夫ですか! くそっ」
 彼らのすぐ横で、同じく駱駝の背にとりついていた羽磋には、王柔と理亜が空中に放り出されたのがすぐにわかりましたが、手を伸ばして彼らと駱駝を繋ぎとめることなどはとてもできませんでした。そこには意を決する時間などもありませんでした。考えるのではなくとっさの判断で、羽磋は自分から駱駝の背を離れ、王柔たちの方へと両手を伸ばしていました。
 でも、今度は先ほど違って、自分の動きを支えるものがありません。これでは如何に体が軽い羽磋であっても、空中で動くことなどできませんでした。羽磋は駱駝から離れてしまいましたが、王柔たちの元へも行けませんでした。
 彼らは、岩壁に激突した痛みに悲鳴を上げ続ける駱駝、理亜を胸に抱えている王柔、そして、羽磋の三つの塊に分かれて、西日が差し込まず黒い影が凝り固まっている谷底へと落下していくのでした。






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