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月の砂漠のかぐや姫 第116話

「まだ半日かかるんですか。遠いですね・・・・・・」
 羽磋は片手を筒のように握ると、それを目の前にくっつけました。これは遊牧隊の先輩から教わった方法で、このようにすると視界こそ狭くなりますが、遠くにいるものをはっきりと見て取ることができるのです。
 羽磋は、手で作った筒を顔にくっつけたまま身体全体を動かして、自分たちが進んでいく方向をぐるりと見回しました。これは、少しでも早く進みたいという、羽磋の気持ちが行動に表れているのでした。「気がついていないけれども、実は自分たちは思ったよりも進んでいて、気を付けて探してみればヤルダンの兆候が見て取れる・・・・・・ということはないだろうか」、そのような子供っぽいとさえ言えるかもしれない、彼の淡い期待が表れているのでした。
 ぶん、ぶーん、はんぶーんナノ・・・・・・。
 理亜は今日も機嫌が良さそうに鼻歌を歌っています。彼女を乗せた駱駝を引きながら、王柔は羽磋を眺めていました。
「あ、あれ、王柔殿、この先の方に、盛り上がった岩みたいなものが見えますが、あれはひょっとして、ヤルダンの岩ではないですか?」
 その王柔に、羽磋が囁くような声で問いかけてきました。その声には、ひりひりとした緊張と隠し切れない期待が、込められていました。
「え、いや、ヤルダンまでは、まだ、しばらく時間がかかるはずなんですが・・・・・・、えーと、やっぱり、特に変わったものは無いですよ」
 羽磋よりもはるかに背の高い王柔でしたが、彼はさらに背伸びをして、羽磋が指さす方を確認しました。でも、羽磋が示す方には、通常のゴビの地形と比べて、特に異なるものは見つけられませんでした。
「王柔殿、こうやって見てみてくださいよ。遠くのものがはっきりと見えますから」
 羽磋は王柔の言葉を聞いても納得しない様子で、彼に自分の遠くを見る方法を試すように、珍しく強い調子で言いました。
 王柔としては、ここは何度も通ったことのある道であって、ここら辺りにヤルダンの奇岩がないことはよく知っているのです。「ヤルダンは、まだまだ、先ですよ」と片付けて、先へ進んでも良いところです。
 それでも、「まぁいいか」という気持ちで、彼が羽磋の勧める方法を試してみたのは、羽磋の真剣な表情に押されたということもあったのですが、それに加えて、やはり、心のどこかに「ヤルダンが変わってしまっているかもしれない」という思いがあったからなのでした。
 羽磋の真似をして丸く握った手のひらを通して見ると、王柔の視界は点のように狭められました。たしかに、余計なものが目に入らないせいか、羽磋の言うように、目的のものがはっきりと見えるような気もします。でも、まだまだ、ヤルダンまでは距離があるはずです。こんなところにヤルダンの奇岩が・・・・・・、あ、あれ?
 王柔は、一度手を開いて目をこすると、もう一度同じようにして確かめました。あるのです、そこに。周りの地形とは明らかに違う、岩の塊が。まるで、ゴビの大地という盤に、精霊が戯れで賽をほおったかのように、転がっているのです。
「そんな、まさか・・・・・・」
「ね、あるでしょう、王柔殿。我々は思ったよりも早く、進んできているのではないですか」
 王柔が驚いている様子を見て、自分の見た光景が正しかったことを知った羽磋は、嬉しそうに彼に尋ねました。
 でも、それを受けた王柔の方には、少しも嬉しそうな様子はありませんでした。これまで歩いてきた交易路の地形や目印から、自分たちが予想以上に進んでいることなどないことは、案内人である彼が一番よく知っているのです。
 それなのに、このような場所でヤルダンの奇岩を目にするなんて・・・・・・。自分の今までの経験と自分が実際に見ているものとが明らかに食い違い、彼はどちらを信じればいいのか、とても混乱していました。
 その時、彼の頭の中に、ヤルダンにまつわる昔話の一節が浮かんで来ました。
 「かつて、ヤルダンが溢れようとした」、それは、そういう一節でした。
 そうだ、自分の経験も、いま目にしているものも、どちらも正しいんだ。おかしいのは、そう、ヤルダンの方なんだ。かつて、ヤルダンが溢れたように、今、ヤルダンがおかしくなってきているんだ。王柔には、そう思えました。
「いいえ、羽磋殿。早く進んでいるわけではないのです。ヤルダンの何かが、おかしいのだと思います」
 緊張した声で羽磋にそう告げると、隊の先頭を彼に任せて、王柔は交易隊の中央を歩く冒頓の方へ向かいました。順序良く並んで進む駱駝の流れを、彼が引く駱駝、理亜が乗る駱駝だけが、遡って行きました。
「冒頓殿、冒頓殿っ!」
「どうした、王柔、どこに何があったんだ」
 険しい表情をして大声を上げながら戻ってくる王柔に、いつもなら軽口の一つも投げつける冒頓も、すぐさま反応をして見せました。なにしろ、王柔が自分を怖がっていることは、冒頓自身が一番よく知っているのです。特別な出来事でもなければ、彼の方から自分に話しかけてくることなど、あるはずがないのですから。




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