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月の砂漠のかぐや姫 第110話

「それにしても、交結という通り名どおりの方だったな」
 羽磋は、自分が挨拶をした時に交結が見せた、大げさな歓待のしぐさを思い出していました。それに加えて、小野から「実は例の件で報告がありまして」と耳打ちされた後で交結が見せた、早く報告を聞きたくてたまらないとでもいうような子供っぽいそわそわとした様子も、彼の心に浮かび上がってきました。
 年齢で言えば、交結は、羽磋はもちろん小野よりもずいぶんと上になるはずですが、「人と人を、交易と交易を、交わらせ結ぶ」と言う名の通りの、とても人あたりの良い人でした。
 小野の報告を聞くために羽磋との話をさっさと切り上げた情の薄い人だと、意地悪な見方をすることもできるかもしれませんが、よく考えてみるまでもなく、交結は土光村の代表者であり、羽磋はそこを訪れた年若い留学の徒に過ぎません。
 挨拶をする機会を交結が設けてくれたことだけでも、羽磋にとっては、とてもありがたいことだったのでした。
 緊張から解き放たれたせいか、朝とは見違えるほど軽くなった足取りで有力者たちの大きな家が並ぶ一角を離れ、羽磋は大通りの近くへ戻ってきていました。
 小野は交結と話をする必要があるので、羽磋は先に天幕に戻ることになっていましたが、特に急いで戻る必要もありませんでした。
 朝方に小野と通った大通りは、昼近くなった今も、人で溢れていました。大通りの両脇で各地を旅してきた交易隊が荷を並べているだけでなく、集まってくる人たちを目当てに、食べ物や飲み物を売る露店もたくさん出ていました。
 遊牧や交易に出ている最中は、食事には大きな変化がありません。乳酒や乳製品を中心としたものに、干し肉がつけばご馳走です。でも、この大通りの両脇に並んでいる露店では、穀物を捏ねて蒸した饅頭や、羊肉の串焼きが、美味しそうな湯気を立てていました。その横では、果汁たっぷりの瓜や見たことのない鮮やかな色をした果物が、「わたしで喉を潤して」と、行き交う人を誘っていました。
「いやいや、珍しいものばかりだな。月の民の国の中で、別の村に来ただけなのに、こんなにも違うものなんだ。これじゃ、よその国にでも行ったら、いったいどうなるんだろうか」
 羽磋は、物珍しそうにきょろきょろと左右の店を見回していましたが、どの店にも立ち寄ろうとはしませんでした。
「おぉい、兄ちゃん、この羊肉はうまいぜ、食ってみないかい」
「ほら、この瓜、良い音がするだろう。汁気たっぷりだよ。安くしとくよ!」
 店先からは、威勢の良い声が投げかけられますが、いつもの彼らしくない、あやふやな笑顔で、羽磋はそれを断っているのでした。
 羽磋は生まれてから今までの間を、讃岐村と遊牧地で過ごしてきました。讃岐村という貴霜族の根拠地は、それなりに栄えてはいたものの、やはり、遊牧隊の補給基地という性質が強い、素朴なところです。
 早い話が、ゴビの砂漠と田舎の村で育った羽磋は、この大通りの賑やかで威勢のいい雰囲気に、すっかり圧倒されていたのでした。
「輝夜と一緒なら、この通りに並ぶ店を、片っ端から試して行くんだけどな・・・・・・。あ、あれ、まただ。王柔殿、こんにちは! どちらへお出かけですか!」
 店に入る思い切りはつかないものの、眺めているだけでも十分に楽しいと、のんびりと大通りの中を歩いていた羽磋は、人の流れの中に、王柔と理亜を見つけました。
 思い返してみると、今朝、交結の館に向かうためにここを通った際にも、彼らの姿を見かけていました。羽磋は、自分でも理由がよく判らないのですが、彼らを再び見かけたのがとても嬉しくて、大声を出して呼びかけました。
 明確な不安とはなっていなかったのですが、それでも、いま二人の顔をみてこんなにも安心した気持ちになるということは、漠然とした不安が朝方から彼の心の奥底に眠っていたことを示していました。
 彼の心の奥底に眠っていた不安、それは、どのような不安だったのでしょうか?
 昨日の酒場の小部屋でのいきさつを知っていて、今朝のように村はずれの方へ向かう二人の姿を見た人の多くは、こう思うのではないのでしょうか。
「ひょっとしたら、王柔は、理亜を連れて逃げ出してしまったのではないか」と。
 人が考えをめぐらす際に用いる言葉は、自分が持っている言葉です。何かを想像する際に最も流れて行きやすい道筋は、自分が何度も通って下草も生えなくなっているような道筋です。
 羽磋は、問題にぶつかった時に、「逃げる」という選択肢を持たない、非常に前向きな青年であったので、「王柔が逃げ出すかもしれない」という、明確な不安には行きついていなかったのでした。
 でも、そんな彼でさえも、心の奥にそのような不安を生じさせてしまうほど、昨日の王柔は「理亜をヤルダンに連れて行きたくない」と、一生懸命に訴えていたのでした。
「あ・・・・・・、ああ、羽磋殿、こんにちは」
 大通りの人込みの中で羽磋の呼びかけに気付いた王柔の顔にさっと浮かび上がったのは、喜びとは違う別の何かの表れでした。でも、王柔は直ぐに笑顔を浮かべると、周りの人にぶつからないように、そして、理亜が自分の後ろに楽についてこれるように注意をしながら、羽磋の方へ歩み寄ってくるのでした。



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