黒澤明監督「生きる」と煉獄杏寿郎
人はなぜそこまで熱くなれるのか。
人はなぜ生き方を変えることができるのか。
そして今の自分はどうか……
とても深く考えさせられた。
1952年に公開された黒澤明監督の映画「生きる」
30年間無欠勤で市役所の市民課長を務めてきた男が胃癌で余命が短いことを理解し、これまでの自身の生き方を後悔しつつ残された命の時間の限り生きる意味を追い求め、市民公園を作ることに命をかけた物語。
自身の身に予期せず降り注がれた不幸
淡々と過ごしてきた日々への後悔
失意のどん底にいる中での新たな出会い
息子に打ち明けられない苦悩
その状況になってみないと味わうことのない心の葛藤や、すぐには変われない自分の生き方に対する自問自答の日々…
心の中をえぐるような臨場感あふれる演技に迫力があった。
飲み屋で出会った人に、
「不幸は人間に真理を教える。胃がんはあなたに人生に対する目を開かせた。」と言われても何か煮え切らないのは、とてもリアルだ。
自分自身も予期せず起こってしまったショッキングな出来事の後、大切な人からの励ましの言葉をもらってもなかなか立ち直れず、すぐに心機一転とはいかなかった。
主人公は、これまで長年輝きを失って「何もしない」ことを選択してきた人生を悔いても意気消沈した態度をなかなか変えることができず、更には頼りにしたい家族や周りの人たちからも追い討ちをかけられる。
「市役所の人間に、何をすることができるのだろうか…」
自身の仕事の中で新たに作れるようなことがない絶望に打ちひしがれそうになっていた。
しかし、その後
「今の仕事ではどうせ何も作り出せない」から
「今の仕事で何を為すことができるか」という
思考へのシフトが起きる。
それも元部下の何気ない一言によって。
残された人生に対する目が開かれ、ついに動き出すことになった。
その時の主人公の目の輝きは忘れられない。
その後の主人公の行動を表すキーワードは、
「立場と責任」が生み出す「使命感」だった。
と思うと同時に頭な浮かんだのが鬼滅の刃に出てくる炎柱「煉獄杏寿郎」だった。
「俺は俺の責務を全うする!! ここにいる者は誰も死なせない!!」
煉獄さんは、猗窩座との戦いで重傷を負いながら無限列車の乗客や炭治郎たちを守ろうとし、この言葉を放った。
自分の命が危ないのに周りの人を守るため一歩も引かずに戦い他の命を守り抜いたのは、まさに煉獄さんの柱としての責任と使命感だ。
そして煉獄さんの命が途絶える前、
目の前に母の姿が現れるとこう言った
「俺はちゃんとやれただろうか。やるべきこと果たすべきことを全うできましたか?」
それに対して母は、
「立派にできましたよ」
と笑って褒めたのだ。
その後、煉獄さんは嬉しそうにして笑顔で息を引き取る。
「生きる」の主人公 渡辺も亡くなる前、自分が作った公園のブランコで♩命短し 恋せよ少女〜♩ではじまる「ゴンドラの唄」を幸せそうに歌うシーンが、まさに煉獄さんの最期の姿に重なって見えた。
自身が認識した役割を全うしたという実感を味わった人の最期の美しさ。
人からどう思われるかかではない。
人に感謝されるためにやるわけでもない。
役職や収入、やったことの大きさでもない。
自分が生きた証を追い求め、命の限り納得いくまでやり切ろうと動くことの尊さ。
「俺はこのために命を燃やした。」
そう思える人生を歩みたい。
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