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少年期の心-精神療法を通してみた影/感想

これは精神科医である筆者が数十年にわたって向き合ってきた子どもたちの観察・治療記である。

子どもの逸脱行動は個人の問題なのか


精神科というと今はもう若者の方が馴染みがあり抵抗も少ないのではないかと思うが、この本では箱庭療法という治療法を用いて子どもの内面に触れている。注意したいのは、子どもが何らかの症状を呈して親が精神科を訪れたとしてもその症状が必ずしも子ども個人に起因するわけではないという点である。

もともとその子を「逸脱」させ、「異常」とする要素を持っていたのは、その子自身ではなくて、もしそのような小社会の方であったなら、その小社会に戻すこと、すなわち単に「適応」させるために「なおす」というのは誤りではないか、という意見です。殊に、昔と違って、神経症や精神疾患の大部分のものが、その個人の担う遺伝とか性格とかの、個人の弱点だけに原因があるという考えは多分に一面的だとの反省が生まれ、大きな部分がその個人の所属する「場」の持つ病理のしわよせの結果出てきたのだ、という考えが昂まっている現代では、当然の異議申し立てでしょう。

少年期の心―精神療法を通してみた影
山中 康裕

大部分がその個人の所属する場の持つ病理のしわよせの結果、というのは親からすれば一見実に頭の痛い話だが念頭に置いておくべきことだろう。

少女が頭痛と不登校を介して挑んだ未処理の問題

この本で紹介される様々な子どもとその症例については筆者がプライバシーに配慮し、またその上でケース内容が一目瞭然となるよう名付けられている。

犬噛み道太、口無し太郎、赤頭巾庭子、地獄の鬼太郎、母恋い霧子、詰り過ぎ誠、文交い繭子…みな7歳から15歳までの少年少女である。どの症例も大変興味深く、学ぶこと多々だがとりわけ私の印象に強く残ったのは第三章「反対の国からの帰還 赤頭巾庭子」の症例だった。

この章は小学一年生の庭子が入学して三か月も経たない6月の体育の授業中に頭痛を訴え、それから体育の授業になる度に頭痛を訴えるため親が頭の異常を疑って受診したことに始まる。二学期に入るとそれまでに加えてお腹が痛い、気分が悪い、と何かにつけて学校を休む日が目立つようになり母親が出産を迎える三学期はほとんど学校へ行かなくなった。そこで山中(筆者)はこの頭痛は脳波異常云々の問題というよりむしろ心気症的であること、また翌日は登校するつもりでいるのにいざ朝を迎えると起き上がれず、午前中はぐずぐずして過ごすのに学校がひけるくらいの時間になると元気になることなどから「学校恐怖症」と呼ばれる児童神経症一つに該当すると診断した。

学校恐怖症の原因説に、分離不安説(子供だけでなく母親の方にも何らかの不安があってお互いに無意識的に結合しているため、その結果、子供が学校にいけない、という説)がありますが、庭子も、次々に生まれてくる妹たちのために、三歳になる前に保育園に行かねばならず、甘えも不足したでしょうし、随分と心細く不安でもあったでしょう。

少年期の心―精神療法を通してみた影
山中 康裕

現代の子どもたちはその多くが早くから保育園に通っている。この分離不安説、学校恐怖症は時代の流れを含めば現代にこそ多いかもしれないと思った。だがそれはそのこと自体に問題があるというより、社会情勢を加味すれば女性も多くが出稼ぎに出ている点である意味仕方がないことも多い。となると、これらの症状は何か特別深刻なものでその個人・家庭にこそ、というより誰しもがなりうるという点で風邪の様な位置に置き、精神科のみならず社会的に関心を向け、対策を練っていった方がいいのではと考える。

当然ながら共働きで保育園に入園させること選択した夫婦を卑下することは許されず、またそうした選択を採った人たちが片方育児専業で家庭に残る選択をした人たちを詰ることも許されたものではない。どの選択にもメリット・デメリットがあり享受するのは他ならぬ本人たちである。どの家庭も必死に自分たちに合った方法で模索しながらも子どもを育て上げようと奮起していることは忘れずにいたい。

だがそれと同時に、親が良かれと思ってやっていることでも子どもにとっては違う景色が広がっているという可能性は常に心の片隅に置いておいた方がよいのかもしれない。

私はこれは両親像ではないだろうかと考えました。なぜなら、子どもたちが一所懸命に宝探しをしているのに、自分たちは仕事一途で子どもたちが何をしているのか全く気付いていないふうだったからです。もちろん、現実の両親その人でなく、これは庭子からみた両親像でしょう。現実のご両親は先にも述べたようにK医師のカウンセリングに熱心に通っておられますし、子どものことにかかずらわざるをえない状況になっていました。

少年期の心―精神療法を通してみた影
山中 康裕

症例として読むに留めるには勿体ない

この一冊を通して子どもが箱庭を使って内面を表現しながら徐々に変わっていく様に触れることが出来る。だがこれはただの「誰かの」例に留まらないと感じた。というのも、

これは私の推測ですが、知的な両親の一部は、自らが知的な評価によってその両親に認められた存在であったわけですから、知的側面では優れていても、意外と情緒的・感情的側面でのこまやかな発達を完成させていない方々が多いようです。つまり、自分たちの少年少女時代に頭がよいということでちやほやされて、人間的なものを育てる努力が怠られている場合が多いため、かなり我が儘で、情緒的・感情的に未熟な方もめずらしくありません。

少年期の心―精神療法を通してみた影
山中 康裕

これはかなり自分への戒めでもあるが『人間的なものを育てる努力を怠ればかなり我が儘で情緒的・感情的に未熟な人間になりうる』ということだ。私自身は特段頭の良い方ではなかったが、どうしてもこの一文が引っ掛かり、後味の悪い思いをした。どうにも該当するのではないかと思えてくるのだ。そしてそれは対大人ではなく、対子どもといった自分より弱い者に向き合っている時顕著に表れるように思う。

子育ては子どもを介した自分を見る鏡の様なものだと以前思ったが、それは自分の人間としての未熟さが、身体的により未熟な者(つまり子ども)を前に表出するからであるように思う。力でねじ伏せるのは容易いだろう、声を荒げて恐怖で支配するのも簡単なことだ。だがそうして育った子どもはそれを繰り返す、親は人生最初のロールモデルなのだ。

行為が軽かろうが弱かろうが子どもの為だとおもってした行為であろうがなかろうが、傷つける意思があろうがなかろうが、子どもが傷つく行為はすべて「マルトリートメント」です。そしてマルトリートメントをしてしまったら、われわれ大人はその行為を認め、改める必要があります

子どもの脳を傷つける親たち
友田 明美

私の実感では、親はすぐ親になるわけではない。肩書がそうだとしても、中身は絶えず試行錯誤を繰り返し、より良き方へと努力されることでその名に相応しい存在としての経験値がひとつひとつ積まれていくのである。

もちろん親であれ人間である、失敗もする。それが子どもの神経症という形でこの様に表出することもあるのかもしれない。仮にそんな時が来たら、場の持つ病理という言葉を噛みしめて今までのやり方を改め、子と対話し、また状況に応じて医療機関などに助言をもらいながら、改善のために出来る努力をしたいと私は思う。

子どもが神経症という、ある意味では否定的なものでありながら、他方ある意味で人間のとりうるひとつの「知恵」によって、新しい状況を切り拓くための仕事をしようとするとき、天は、子どもに創造性を与え、めざましい能力を一時的に授けるのです。スイスの精神療法家ユングの考えによれば、これこそ、人間の≪自己≫のもつ、超越的な機能なのだといえましょう。

少年期の心―精神療法を通してみた影
山中 康裕



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