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風の音にぞおどろかれぬる

この頃は朝に夕に外を歩くと、ふとした風の冷たさにハッとすることがある。
ああ、秋が来たんだと思う瞬間だ。
そんな時、ある和歌が浮かぶ。

秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる

現代語訳:秋が来たとは目にははっきりと見えないけれど、風の音で(秋が来たんだなと)自然に気づく。

これは古今和歌集に収録されている藤原敏行の一首だ。中学3年生の国語で習ったという人も多いはず。

今日私が感じたのは「風の音」ではなかったが、肌に触れる風の温度が変わったと、はっきりわかる瞬間があって。
まだ暑くても、もう夏ではない。
季節は移ろい、秋がやってきたのだと、そう感じられた。
そんなときに、この「秋来ぬと……」が頭の中に流れるのだ。

私は大学生の頃から社会人になってからもしばらく、中学生対象の学習塾で数学と国語の講師をしていた。だから、他の人より「国語の教科書の中身」の記憶が強いのだと思う。
そのうえ、大学では国語国文学専攻で古典文学を学んでいたので、平安~鎌倉時代あたりの文学への想いは深い。

そういういくつかの要因があって、私は日常生活の中のさまざまな場面で、いろんな和歌や文学の一節を思い浮かべるというクセがある。

この藤原敏行の一首はシンプルだけど視覚・聴覚ともに豊かな感性を味わえる、とても良い歌だと思う。
先生として生徒に教える時も説明しやすく、テスト問題も作りやすかった。

たとえば、「来ぬ」の「来」をどう読むのか?
正解は「き」で、「こ」ではない。
そうすると、この「ぬ」の助動詞の意味は何になるのか?
正解は「き」が連用形なので「完了」だ。
「おどろかれぬる」の「おどろく」の意味は何か?
正解は「自然に気づく」で、現代のような「びっくりする」の意味ではない。

このように、「覚えたら正解する」という問題ばかり作られるタイプの和歌なので、こちらとしても教えやすいし、学校のテスト対策は模擬テストを作ってあげたら、まあ百発百中で当てることができた。

ただ、生徒に教えていて、ハッとしたことがある。
全体の意味(現代語訳)を教えると、生徒がみんな「?」の顔をしているのだ。この「?」の表情を言葉にするなら「……だから?それがどうした?」というところか。

「風が吹いて、秋が来たって思っただけ?」
誰かが口火を切ると、
「おもんなー」
「しょうもなー」
「なんの意味があんの?」
などと口々に言う。

私はあわてて藤原敏行さんをフォローする。
「あんたらかって思うことあるやろ?季節が変わったなーって。そういう微妙な瞬間を歌にするっていうのが、この人のすごいところやねん」

全員、ぽかーん、である。

こういうことは他の教材でもあった。

・源氏物語で、すぐに感動して泣いてしまう登場人物
→生徒:なんですぐ泣くねん?
・枕草子で、夏にホタルが飛び交う
→生徒:ホタルって見たことないし
・奥の細道で、自分の住んでいたわびしい家がひな人形を飾るような子供の住む家になるんだという句を書いて、柱に貼って旅に出る
→生徒:そんなん貼ってたら次の人、めっちゃ怖いやん!

古典文学の世界は、正直、中学生にとったら「どういうことやねん?」「なんでやねん?」ばかりなのだ。
知識をいくら教えたところで、実感がなければ本当の意味で作品を理解することはできないのだと、その時悟った。
現代語訳があれば意味は理解できる。文法や語句の意味がわかれば、テスト問題は解ける。
ただ、実生活や自分自身になぞらえての感動はできない。

当たり前だなぁと思った。
この塾は大阪市内にあって、生徒は生活の中で自然に触れ合うということがほとんどない。
一方、私は大阪郊外の田舎町で育って、田んぼの中を歩いて買い物や学校に行っていたし、夏になればホタルも飛ぶし、カエルも虫も鳴く。季節の移ろいを、この目で、耳で、肌で感じて育ってきた。
そうか、この子たちは、「秋」を肌や音で感じる経験がこれまでなかったんだと、その時理解した。

ただ、今はどうなんだろう。
あの子たちも大人になって、自分の子どもを連れて公園や山や海へ行った時、朝の出勤の道で、仕事の帰り道で、「風が変わったなぁ、そろそろ秋だなぁ」と感じているんじゃないだろうか。
今なら、あの和歌の意味が、語句も文法もわからなくても、実感を持って理解できるんじゃないのだろうか。

教育、特に国語なんて、古典なんて、机上だけで学べることなんて本当にわずかだ。
生徒に、夏が終わるころの秋の風を、肌で教えてあげたかった。
そうしたら、あの和歌の意味が、あの時にも理解できたはずなんだ。

今日もスーパーからの帰り道、心臓破りの坂を上りながら、それでも吹く風に秋を感じながら、そんなことを考えていた。





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