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神はどこにいるか

各地の神様について読んでいるとそれには類型があるように思う。

①家族を持つ神様。ごはんを食べることが多い(人に捧げてもらう)。人の暮らしよりちょっと上にいて、ごはんを通した関係はもつが、人と直接はまじわらない。

②家族を持つ神様(同上)。でも同時に人も神格化されることがある。

③家族をもつ神様。人と対等。人としょっちゅう直接やりとりをしている。

④家族をもたないひとつきりの神様。

⑤家族をもたないひとつきりの神様だが、別名、別形態を多くもつ。

なんとなくピンとくる方もおられると思うが、日本、アイヌ、そしてチベットにいたるまでの狩猟、牧畜文化をよこぎって一神教地域に到達(乾燥地牧畜文化圏、イスラム)、東アフリカ(ステップ牧畜民)くらいまでしか文献を読んでないのでめんご。

これらをみていて、また某宗教の土地でのべ5年のフィールドワークをしてきて思うのは、人同士でいっしょに神様に向かいあう土地では、その存在は希薄化、定型化していく(政教分離)。人ひとりひとりが神様に向かいあう土地では現代においても神様が強く残る。はい、もうおわかりになりますよね。①が稲作文化圏、③が狩猟、②は①と③の中間形態(②③が牧畜に移行している場合もある)。④と⑤は一神教文化圏(念頭にあるのはおもにイスラーム)。ヨーロッパは基本④だけどベースが狩猟だから②③のあたりをどうみるかまだ不明(あんまり文献を集めていない)。難しいのは③でも④の神の概念をもっていることもあること、ただこの場合の③は頂点に意味不明なひとがもうひとりいる、といった感じで厳密には④とはいえないんだよなぁ…。

分類する立場をあらわす語彙に「ラムパーとスプリッター」がある。これはおおまかに特徴をとらえる立場と、差異をみのがさずことごとく細分化していく立場をさす。ここではわたしは「おおまか」なほうの立場を取る。だからヨーロッパでもこういう事例もある!といったご指摘はあっても目をつぶっている可能性をご留意いただければと思う。

なぜこういった(おおまかな)違いが生まれたのであろうか。

なぜだと思います?

ここでは「私を救ってくれる、私が頼っていい(頼っていることを自慢していい)、絶対無謬の神は結局どこにいるんですか」という方は回れ右していただければと思う。神とはなんだろうとわたしも考えてきたが、日本以外の民族がどのように神を呼んでいるのか、それがわたしからはどうみえるのかを考えていくと、そういう存在は、まあ、いない(イスラームの神は[説明的には]それに近いが、それでも無思考が許されている形態ではない)。そもそもそういう神を思考することそれ自体が日本の神の形態であるし、それにそういう人間社会での思考放棄を望む姿勢は「人間」として恥ずかしい。「神様」はそう考えているとわたしは考えている。

試論として述べさせていただくが、それは「人にはコントロールできない自然」とのむかいあいかたに拠っていると思っている。

農業はひと同士で自然にむかいあう形態なので、「人にはコントロールできない自然」はどんどん形骸化されていく。天災でもおこらないかぎり、人は神への謙虚さを失っている。

狩猟ではひとは一頭一頭の獣とサシで相対するので、その(人にはコントロールできない自然)存在感は強靭、興味深いのはアイヌの神様は人間と対等で、人間に命令されたり、神格の価値なし、と追放されたりしているところ(笑)。この神と人とは隣あった2つの世界をかたちづくっており、命は人の世界、獣の世界を循環している。

牧畜と一神教のむすびつきは有名な話だが(その界隈では)、厳密に分析した人間はあまりいない。なんで両者がむすびついているのか、おわかりになります?わたしは最近チベットの宗教について読んでいたので、牧畜といっても東アジアの狩猟ベースから牧畜への移行の場合は一神教化しないと思っている(仮説)。一神教化する牧畜には乾燥が必須であるとの見方をつけている。

何でだと思います?

試論ですよ。

乾燥地では人が家畜を「支配」しておらず、家畜自身の生きる力(人にはコントロールできない自然の力)に人が依存しているから。

乾燥地では人は草を集めそれを食べさせることによって家畜の生活を「支配」することができない(草がない)。そのかわりに何をしているか。家畜が自分自身で草を探して食べる能力に依存して、家畜といっしょに人が移動することによって人がいきている。つまり人は家畜をコントロールできていない。そこでは人が人為でどうにかできる部分はほぼない。家畜を家畜囲いからだすくらいは人がする部分かもしれないが、実は家畜は囲いにいれなくても人のそばにいる(本当)。囲いにいれるのは、囲いで溜まる糞尿のまざった土を畑でつかうためだったりする。人は家畜が橋をわたれなくなっていたり、他人の家畜囲いに居座ってしまっていたりといったことへの事後処理しかできない。つまり、すべては世界が勝手におこなうことで、自身とは目にうつったことに対処するだけの存在。ある意味、何もしなくても世界は人を食べさせてくれさえする。これがすべてを神にゆだねる思想の大本。そこでは人にはコントロールできない自然の範囲がひろすぎるのだ。

要するに、この地球という環境そのものの呼び名が「神」なのである。どの民族にとっても。ただ生業(おおもとでは稲作、牧畜、狩猟)に応じた自然との向かいあいかたの違いによって「神」のとらえられかた(言語化のされかた)が変わる。

人を産み、人に食べさせ、人を生かしているのはこの地球という環境そのものなので、それが「神」で異論なくね(笑)。人と環境の結びつきとか、人がどういうふうに環境に規制されているか(多分規制されていると人は思っていない。そのレベルの話。)、いろいろ考えているところです。

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