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小説『ウミスズメ』第十一話:テレビ・空港・秘密

【前話までのおはなし】
僕を追ってハンバーガー店にやって来たユトは、彼女が知るはずもない男の名前を口にして僕を軽いパニックに陥れた。
そして僕は、偶然にも中学生のいじめと思しき場面に遭遇する。
助け舟のつもりで言った一言が仇となって、ユトは僕に家庭教師になってくれと言い出した。


 あまりにも話が飛躍し過ぎて、彼女が何を言っているのか、一瞬理解ができなかった。

「ね、いいでしょう? 私、毎日お店で一人で勉強するのはもう、うんざりなのよね」

「そんなの……無理に決まってるだろう」

「いいじゃん。だって海宝さん、どうせバイト生活なんでしょう?」

「なん……よく覚えてるな、そんなこと。そうだけど……僕だって色々忙しいんだよ」

「それも嘘だよね」

 フライドポテトの紙袋をクシャクシャと丸めながらそう言って僕を見たユトの眼差しが、急に真剣味を帯びたのに僕は気が付いた。昨日会った時から終始一貫していた生意気で自己中心的な態度ではなく、何故だか急に年齢相応の女の子の素直な表情が現れていた。

「たまには本当のことを言ったら?」

 男女の愁嘆場のような安っぽいセリフは別としても、ユトの真剣さは僕にとって居心地が悪かった。それに、これ以上子供の遊びに付き合っている暇は無い。席を立とうと身体を捩った時、注文カウンターの上にテレビモニターがあるのが目に入った。

 モニターに映っているのはこのハンバーガー店の二階の様子で、来店した客が二階に空席があるかを確認するためのものだ。カメラは左から右へゆっくりとパンしながら、まばらな客たちを深海探査船のように淡々と画面に映し出していた。

 それを見て僕は、つい先日昼飯を食べた蕎麦屋を思い出した。今時珍しく、その店のカウンターにはテレビが置いてあった。恐らく店主が暇な時に相撲中継かなにかを見るのだろう。その時はハリウッド映画らしいものが音無しで映し出されていた。僕は蕎麦を食べながら、見るともなしにそのテレビ画面を眺めていたのだが、知っている気がするアメリカ人の俳優が何人か、あとは飛行機や空港がやたらと映っていた。

 そんな何でもない記憶が脳裏をよぎった時だった。腹の奥がキリッと痛み、僕は思わず「うっ」と呻いて身を屈めた。

 腹を壊したのではないのは分かっている。昔からストレスを感じると腹が痛む。つまり〈神経性〉というヤツだ。子供の頃は嬉しいといっては腹痛、悲しいといっては腹痛を起こしていたが、大人になってからはほとんど症状が出ることもなく、治ったと思っていた。

 久々の状況に困惑しつつも、そこで僕はもう一つ思い出したことがあった。天から降り注ぐような轟音。重低音の中に混じる金属的な高い音。超低空で頭上を横切る大きな影。飛行機だ。

 しかし今は、そんな思い出に浸っている暇はなかった。ユトに家に帰るように言って席を立とうとしたのだが、腹がキリキリと痛んで動くことができなかった。脂汗が滲み、顔から血の気が引くのがわかった。

 普段の僕はパニックにはあまり縁が無い。母がいなくなってから今まで、大抵のことは自分一人で切り抜けてきた。しかし今回は妙に焦っている自分を感じ、それが僕の中で掴みどころのない不安となって大きく膨れ上がっていった。このままここにいて体調が悪化すれば店の人に救急車を呼ばれてしまう。

「また具合が悪いの?」とユトが聞いた。

 僕はそうだと答えた。ユトが魚カフェへ戻って休むよう申し出てくれたが、今の体調では、そこまで歩いて行けるような気がしなかった。

「じゃあ、近くに公園があるからそこで休もうよ」

 他に良い代替案もなかったので、僕たちはハンバーガー店を出て、ユトの言う公園へ向けてそろそろと歩き出した。

 しかしユトは何故〈休んでいけば〉ではなく〈休もうよ〉と言ったのだろう。その一言に含まれる、ちょっと共同体めいたニュアンスが不思議だった。僕たちは家族でも友達でも、仲間でもない。一緒に行動する理由なんて何も無いのだ。中学生の女の子としては、薄気味悪くなって逃げ出してしまったって良い筈だった。やって来ては退いて行く波状攻撃のような腹痛に耐えながら、僕はそんなことを考えていた。

 その公園はユトの言った通り、すぐ近くにあった。何とかベンチに辿り着き、足を上げて横になった。外の空気を吸って呼吸を整えると、幾らか気分が良くなってきた。そういえば、そろそろ日も陰ってくる頃だ。ユトに家へ帰るように言ったほうが良いのはわかっていたが、僕は迷っていた。ここで横になっていてホームレスや酔っ払いに間違われた場合、ユトにいてもらったほうが都合が良い。しかし逆に年端もいかない女の子の側でベンチに寝転がっていたら、不審者か何かと勘違いされる恐れもある。

 ユトは近くの自販機からペットボトルの水を買ってくると、それを僕に手渡しながら言った。

「ねえ、何でそんなに救急車が嫌なの?」

 昨日から何度も聞かされたユトの質問に、僕はそろそろ本当のことを話すことにした。結果的に彼女には何度も助けてもらったし、ここ数日の体調不良で少し弱気になっていたせいもあったかも知れない。

「僕には戸籍が無いんだ」

 言葉にしてしまえばこれだけのことだ。

 僕には戸籍が無い。住民票も無いし健康保険証も無い。そうなるとちょっとした診療でも医療費は非常に高額になる。

 それだけではない。国民皆保険が徹底的に浸透しているこの日本という国の病院にとって、保険証が無い人間なんて想定外だ。救急搬送時には持っていなくても、絶対に後から持って来て下さいと言われる。それを無視すれば不審に思った病院が役所や警察に報告するかも知れない。そうなると色々面倒なことになり、痛くも無い腹を探られる――腹は痛いのだが――というようなことをユトに説明した。

「以前、戸籍について役所へ相談に行ったこともあるけど、とにかく聞かれたことに何も答えられなかった。それで最後には、自分自身に関する資料を集められるだけ集めてまた来るようにって言われた。でもその頃にはもう、住んでいた家がどこだったかもうろ覚えだったんだ。しかもここまで時間が経つと、戸籍を取得していない間は脱税ってことになるかも知れない。色々複雑なんだよ」

 僕の人生最大の秘密を聞いても、ユトはさほど驚愕した風でもなかった。所詮彼女はまだ子供で、自分の社会的身分について実感することはあまりないのだろう。

「とにかくさ、このままじゃ国民じゃないってことでしょ? 日本国民だけじゃなく、どこの国民でもないってことになるよね」

「まあね」

「トム・ハンクスの映画みたいじゃん」

「映画?」

「自分の国が無くなっちゃう人の話、見たことない?」

 そういえば、蕎麦屋で見た無音の映画はそれだったかも知れない。たしか飛行機で移動中に何らかの理由で、旅先の空港から出られなくなってしまう男の話だ。

「とにかく、君がこのことを秘密にしておいてくれると助かるよ」

〈そう、子供は秘密が好きだからな〉そう考えてから、なんだか後ろめたいような嫌な気分になった。僕は何も悪いことをしている訳ではないのに〈秘密〉となった途端にどこか犯罪めいて見えるのが不本意だった。

 そして、次にユトが言った言葉で、僕は更に自分の浅薄さを思い知ることになった。

「じゃあ、秘密にしておいてあげる代わりに、私の家庭教師になってくれる?」

 僕はベンチから飛び起き、花壇の柵に腰掛けているユトを睨みつけた。

「嘘だろ。冗談はやめてくれよ」

 しかしユトの表情には、面白がっている様子は微塵もなかった。

「全然、冗談じゃないよ」


前話【第十話:ハンバーガー・生存戦略・多様性の世界】

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次話【第十二話:飛行機・実存・魚のタトゥー】
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