見出し画像

小説『ウミスズメ』第六話:抜け道・ジャングル・高速道路

【前話までのおはなし】
観賞魚店で謎の惨劇(?)を目にした僕が恐れていたのは警察沙汰になることだった。身元不明の僕が一番の不審人物に見える筈だからだ。
僕を怪しむ少女を振り切って、僕は早々に魚カフェから退散した。

区切り_水色_thick - コピー


 少女は僕の連絡先を手に入れて満足したのか、それ以上追って来ることはなかった。しかし、災難続きの魚カフェからやっと解放された僕が、一番先に感じたのは安堵感ではなかった。

 それは、世界が全て、以前とは少しだけ違っているような奇妙な感覚だった。朝から何度も見ている商店街だ。何も変わった筈はなかった。肌を押してくるような強い夏の陽射しも、特に和らいだ様子もない。なのに何故だか景色がぐるっと一回転して戻って来たのに気付かずにいるような、何かしら騙されているような気分がした。

 きっとまだ少し眩暈がしているせいだろう。こういう場合、とにかく家に帰って休んだほうが良いに決まっている。

 既に朝のラッシュ時を過ぎていたので、帰りの電車ではゆったりと座席に座ることができた。代田橋駅に着く頃には眩暈も消えたが、それでも普段よりはゆっくりした足取りで家へ向かった。

 駅前通りを歩くといつも思うのだが、この周辺の商店街は何故どこもこんなに似通っているのだろう。同じ鉄道会社が開発している地域だからなのか、はたまた何か別の力が働いているのか理由は分からないが、もう少し地元の特徴が表れても良さそうなものだと思う。

 しかし考えてみれば、テレビに映る大阪のショッピングモールが吉祥寺のサンロードにそっくりだったりするのだから、何もこの路線に限ったことでも無いのだろう。日本全国、津々浦々のショッピングモールでは、強化プラスティック製の半円形の屋根が白っぽい均質な光を拡散し続けている。そこには古くも新しくもない店々が立ち並び、その前を古くも新しくもない人々が永遠に歩き回るのかも知れない。

 ちょっとシュールなSFのようだ。可笑しくなって、思わずふふっと笑いが漏れた。何だか情けない笑いだったが、気分はだいぶ良くなってきた。

 僕は二年くらい前から、この代田橋で小さな古い家を借りて住んでいる。そこは辿り着くのに少々厄介な場所で、僕も最初は難儀をした。代田橋駅自体のアクセスは特に悪くはない。問題は駅を降りてからなのだ。

 まず、駅前の商店街を抜けると十車線ある幹線道路に突き当たる。道幅が広過ぎるので横断歩道は無く、向う側へ行くには長い歩道橋を渡るしかない。渋谷のような利用者の多い場所であればそれなりの幅を確保して作られる歩道橋も、都市の中枢から少し離れたこの辺では、人がすれ違うことができる程度のかなり狭いものになる。

 たかが歩道橋と言えど十車線を横切る訳だから距離もかなりなものがあり、加えて走行する車の振動で揺れるため、渓谷の吊り橋っぽくて意外に怖い。

 歩道橋を降りて少し歩くと、今度は高速道路の高架橋が頭上を走る場所へ辿り着く。高速道路の下を通って少し行くとようやく人の住むエリアが見えてくるが、僕の家はその住宅街の中には無い。前方に建ち並ぶ瀟洒な住宅を尻目に左側へと目を向けると、灰色の万年塀と古い生垣が見えてくる。

 万年塀と言うのは線路や道路沿いによくあるコンクリートの高い壁だ。正式名称を『鉄筋コンクリート組立塀』と言い、二本の支柱の間にコンクリート製の横長の板を五〜六枚積み上げて一つの面を作り、それをどんどん繋げて塀にするやつだ。

 軽量ブロックをセメントで接着して作る塀よりも施工が簡単で早いので高度経済成長期に盛んに使われたようだが、今では付近の高速道路と同様に老朽化し、一帯の無機質で侘しい雰囲気を助長している。

 この万年塀と生垣の間には一見すると隙間など無いように見えるのだが、真正面に立ってみるとそこに細い小道があるのが分かる。〈道〉と呼ぶのも憚られるような細い隙間ではあるが、通り抜けられると思って迷い込む人も年に数名くらいはいるようだ。しかし、結局彼らは舌打ちをして引き返すことになる。何故ならこの道は左側を万年塀で遮られ、右側の生垣にも出入口らしきものは見当たらず、ただ真っすぐ前へ進んだ挙句に突き当りに至るだけだからだ。

 実際、生垣の向こう側に数件の古い木造の民家が、人知れず生き永らえた古代生物のように存在しているのを地元の人間でも知っている人は少ない。どんな都市にも不思議と開発に取り残されてゆくエリアがあるものだが、ここもそんな場所のひとつだ。そしてこの小道は、生垣内の住人達だけが使い方を知っている、いわば秘密の抜け道なのだ。

 僕の家に辿り着くためには、この〈抜け道〉を突き当りに向かって怯むことなく進んでいく必要がある。そして泥や蜘蛛の巣で汚れた生垣を注意深く見ながら歩き、枝葉の中に不自然な間隙を見つけなければならない。

 予め知っている人間でなければ絶対に分からないような生垣の切れ目を首尾よく見出したら、そこから奥へと入ってゆく。するとそこに、少しだけ開けた一画が出現するのだ。

〈開けた〉とは言っても、あたり一面に大量の植物が何の脈絡もなく生い茂っていて、そこはちょっとしたジャングルの様相を呈している。これが家の庭にあたる場所だ。

〈庭にあたる〉とわざわざ言う理由は、それが既に庭の態をなしていないからだ。

 元々は誰かが植えたらしい椿や紫陽花など、僕にでも名前の分かる植物もあるにはあるが、それ以上に得体の知れない樹木や雑草が、人の手を全く感じない様相で辺り一面を埋め尽くしている。上に伸びるもの、地を這うもの、巻きつくもの、立ち枯れるもの、とにかく何でもある。全体の印象としてはさしずめ植物型の宇宙生物が侵略した後の地球、と言ったところだろうか。

 極め付きは敷地のど真ん中を占拠している馬鹿でかい棕櫚だ。そいつが南国風の葉をだらしなく広げているせいで、雨が降った後には悲惨なことになる。下を歩いている時に偶然この棕櫚の木に鳥が留まったりしようものなら、頭の上から大量の水滴が降り注いでくるからだ。

 この場所に蔓延る他の多くの雑草と同じように、この棕櫚も鳥によって種が運ばれ発芽したのだろうが、ここまで大きくなるには随分時間がかかった筈だ。推察するに、この庭が放置されて少なくとも三十年は経っているだろう。

 この、言わば〈宅地サイズのジャングル〉の西側の端に、小さな二階建ての家が建っている。家と言えば聞こえは良いのだが、実際は木造のあばら屋だ。風雨に晒されてペンキの剥げかかった板張りの壁面にも、当然のことながら蔓植物が張り付いている。

 広さは一階も二階も共に四畳半程しかないので、家自体が不自然なくらい縦に細長い。例えて言うなら、子供が齧ってボロボロにした短い鉛筆みたいな建物。これが今の僕の住処だ。

   * * * * *

 この場所はネットカフェで知り合った男から又借りしたものだ。話を持ちかけて来たのはその男の方だった。彼とはほとんど初対面だったが気さくな奴で、仕事でしばらく九州に行くが、いずれ東京に戻って来るから借りている家を引き払いたくないのだと言っていた。

「僕の弟っていうことにして、君が住んでいてくれると助かるんだけどな」

 彼はそう言った。

 僕はちょうどその頃ネットカフェで寝泊まりしていたので、一時的にでも住所が持てるのは有り難かった。最初はなんだか胡散臭いなとも思ったが、彼は僕に家の鍵を渡して大家へ説明をし終えると、さっさと福岡かどこかへ出発してしまった。結局、僕にとって悪い話ではなかったので、それ以来この場所に落ち着いている。

 実は僕が〈海宝悟〉と名乗っているのも、その男の苗字が〈海宝〉だったからだ。弟という設定上、苗字を合わせる必要があったのだ。〈悟〉のほうはネットカフェで使っていた名義の名前のほうをそのまま利用した。これは小説の登場人物から拝借したものだ。

 そんな風にして住み始めたこの家は、元々は〈離れ〉として造られたものらしく、同じ敷地内の少し離れた場所に古い木造平屋建ての母屋がある。そこには大家の爺さんが一人で暮らしているが、彼が家から出て来ることは滅多に無い。

 僕は月に一度、現金で家賃を支払いに母屋へ行くのだが、大家の姿を見るのはその時くらいだ。ひどく無愛想な爺さんで、無言で封筒を受け取ると小さく頷いてすぐに戸を閉めてしまう。世間話をするなど考えたことも無いのだろう。しかし、お陰で僕は余計な詮索をされることもなく気楽に暮らせる。

 雑草だらけの庭とおんぼろ家屋の他に、この家が魅力的でない理由がもう一つある。それは、高速道路が近いことだ。物件として、これは結構大きなマイナス・ポイントだと思う。と言うのも、高速道路を走行する車の音が昼夜を問わず聞こえてくるからだ。

 最近の遮音性の高い家ならいざ知らず、板と漆喰だけで断熱材も入っていない壁では、これは何とも防ぎようが無い。しかし、不思議なこともあるもので、何故か僕はこの音が好きなのだ。正確に言うと〈好き〉とはちょっと違う。〈気にならない〉より僅かに好意的な気持ち、強いて言えば〈落ち着く〉というのが近いのかも知れない。色々と難はあるが、住めば都だ。

   * * * * *

 やっとのことで家に帰り着いた時には、あれからまだ数時間しか経っていないとは思えないほど疲れ切っていた。一階のキッチンで顔を洗い、忍者屋敷まがいの急勾配の階段を這うようにして二階へ上がった。窓を開けて籠った熱気を追い出すと、後は畳の上に敷きっぱなしの布団へ倒れ込むだけの力しか残っていなかった。開け放たれた窓から入ってくる断続的な風に吹かれていると、気分はだいぶ良くなってきた。

 テレビの前に放り出してあった競馬新聞を拾い上げ、次のレースの予想記事を少し読んだ。〈マヨナカノイズミ〉がこのところ調子が良いらしい。〈次はこの馬を中心に組み立てるかな〉と考えながら、高速道路から漂ってくる――波音のような、雨のような、あるいは遠雷のような――音に包まれていると、まるで海の真ん中に浮かんでいるような気分だった。

 しばらくそうやってふわふわと眠気の中を漂っているうちに、ふと、魚カフェで去り際に見た絵のことを思い出した。あの絵は何だったのだろう。チラッと見ただけなのでよく分からないが、似たようなものを見たことがある気もした。

区切り_水色_thick - コピー


前話【第五話:嘔吐・危機管理・不思議な絵】

* * * * *

▶ 次話【第七話:イカ釣り漁船・牛丼・先入れ先出し】
よかったらフォローして第七話を読んでもらえたらうれしいです!

よろしければサポートお願いします!次の作品の励みになります!