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小説『ウミスズメ』第四話:少女・深海魚・スニーカー

魚の餌 - コピー

【前話までのおはなし】
取材先のカフェは青くて魚だらけだった。
そこで僕は髭のオーナーと「ユト」という名の少女に出会う。
僕はふと、いつか見たカラバッジョの絵と、母の言葉を思い出した。

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〈この絵はね、マタイがイエスについて行くために椅子から立ち上がる、その直前の情景を描いたって言われてるのよ〉

 それはカラバッジョの『マタイの召命』という絵について、母が僕に語った言葉だった。何故、急にそんな事を思い出したのか自分でもよく分からなかった。もしかしたら光の加減があの絵に似ていたのかもしれない。

 先程の少女は店の一番奥の客席に座り、俯き加減で熱心に教科書らしい本を読んでいるか、読んでいるふりをしているようだった。

 マリンスノーのようなホコリが舞う光の中で、ふっくらとした子供らしい頬が輝いて見えた。特に目を引くような容貌ではない。目を逸らせば次の瞬間にはどんな顔だったのかも忘れてしまう、そんな何処にでも居そうな女の子だった。

「可愛らしいお嬢さんですね。今は夏休みですか」

 箒で床を掃いているオーナーに、世間話程度の気持ちで何気なく言ってみた。大抵の親は子供を褒められれば悪い気はしない筈だ。
 ところがオーナーは少し戸惑ったような表情で
「いやいや。そういうことでもないんだけどね」と呟くように答えた。

 なるほど。年頃の娘と父親の確執を心配するよりも、今はやるべきことがある。水槽の中の魚に話題を移すことにした。

「アクアリウムがコンセプトとお聞きしましたが、どういった種類の魚なんですか?」

 オーナーは、娘より魚の方が余程可愛げがあるとでも言いたげに、顎の短い髭を擦りながら、まるで少年のような笑顔を見せた。

「ここにいるのはほとんど海水魚なんだよね。クマノミとかスズメダイとか、ナンヨウハギとかね。知ってるでしょ、アニメとかにも出てくるやつだよ」

 生憎だが僕はアニメは見ない。よく分からないので曖昧な笑顔で取り繕ってみたが、オーナーは僕の反応など、どうでも良いようだった。

「本当は深海魚をやりたかったんだけどね。やっぱり商売上、色が綺麗で可愛いのになっちゃうよね。深海魚って不気味なのが多いからさ。でもさ、あいつらだって可愛いんだよ。よく見ると愛嬌のある顔をしているしね」

 可愛い? たまにテレビで深海魚が漁網にかかったところを見ることがあるが、目玉や内臓が飛び出して死んでいる印象しかなかった。

「深海魚なんて地上で飼えるんですか?」

「うんうん、種類によっては飼えるのもあるんだよね。結構難しいらしいけど」

「水圧はどうなんです? 破裂とかしないんですか?」

「そうそう、君、良く知ってるねえ。それなんだけどもね、元々地上で孵化させたものは、地上の水圧で問題ないんだよ。海で獲ったヤツでも浮き袋の空気を抜くとか、いろいろ処理してやれば普通の水圧で生きていけるらしいんだよね。それに深海魚って言っても色々で、そんなに深くないところにいる深海魚もいるからね」

 オーナーは嬉々として深海魚の話を続けた。僕としては、浅いところにいる深海魚というのは何やら語義矛盾のように聞こえたが、気にしないことにした。魚の世界もそれなりに奥が深いのだろう。

 僕は愛好家という種類の人々に共感する処は、全くと言って良いほど無い。別に愛好家が嫌いなのではないが、熱を入れて話をされてもこちらは聞き流すことくらいしかできないし、共感を得られないことが分かった時に明らかにがっかりしたような顔をされるのも何やら気まずい。有難いことに彼は今、深海魚談義より開店準備の方が気になるようだった。

「あのさ、ごめんね、悪いんだけどあんまり時間が無いのね。さっき電話でフグが入荷したって言うんで取りに行かなきゃならなくなっちゃってさ」

「フグ? こちらではフグ料理なんて提供されているんですか?」

「えぇ? まさか。料亭じゃあるまいし。水槽に入れるやつだよ、ハコフグ。ちっちゃくて可愛いって人気があるからね」

 そして、店の隅に座っている少女の方を見てからこう言った。

「あ、そうだそうだ。あんたユトと一緒に行って受け取って来てくれないかなぁ。いつも魚を仕入れている観賞魚の店だから色々な魚が見られるよ。俺はその間に開店準備をしてるからさ」

「え? お嬢さんと……ですか?」

 僕は面喰ってしまった。いくらなんでも初対面の男と自分の娘を一緒に外出させる親なんているのだろうか。

「うんうん、歩いてすぐの所だから」

 そう言うと、釣り銭用の硬貨束のビニールを剥がしながら少女の方を振り返った。

「ユト! この記者さんと一緒にちょっと〈アクアロード〉に行ってフグを受け取ってきて」

 僕にとって、これはあまりにも予想外の展開だった。

「それは困りますよ」

 一応断ってはみたのだが、オーナーが硬貨をジャラジャラとレジにぶちまける音で、僕の声はすっかりかき消されてしまった。

 少女は、と見ると彼女も読んでいた本を片付けて出掛ける態勢だった。何だか妙な展開になってしまった。僕は別に魚を見たくて来た訳ではないのだ。しかしこちらも下請けの立場上、取材先の機嫌を損ねる訳にもいかない。ネタの一つとして魚の仕入れ先を見ておくのも良いかも知れない、と考えることにした。

「それじゃ、戻ってきたら取材の続きをお願いできますか?」

「はいはい、了解です。悪いね」

 そして僕は、再び夏の照りつける太陽の下へと押し出されてしまった。
 どこまで悪いと思っているのか怪しいものだと考えながら階段を上って通りへ出ると、カフェ店内の薄暗さに慣れていたせいで、眩しさに目の奥がズキンと痛んだ。

 気乗りのしないまま少女の後について商店街を歩いていると、不機嫌そうに黙りこくっていた少女が急に話しかけてきた。

「うちの店、どう思う?」

「え? ああ、面白いお店だね。アクアリウム・カフェって、この辺では珍しいんじゃないかな」

「珍しさだけじゃダメなのよ。そこから先を見ないと。マッキー、のんびりし過ぎなんだから」そう言って、少女は大きな溜息をついた。

「……マッキー?」

「うちの父親。さっき店にいたでしょ」

 なんだか大昔のアイドルみたいな呼び方だな、と思ったが黙っていた。

「もっとマーケティングを考えなきゃダメだってマッキーに言ってるのよね。目新しさだけじゃ生き残れないもの」

 そんなものなのだろうか。なにしろこちらはバイトで取材しているだけだ。本物のライターの真似をしてもボロが出るだけなので何も言わないことにした。いずれにしても質問された訳ではなかった。そこでこちらから質問することにした。

「ユトさん……という名前なの? 君は」

「ねえ、他の店ってどんな感じ? もっとちゃんとしてるんでしょう? 経営計画とか」

 何やら矢鱈とカフェ経営が心配な子らしい。マーケティングより先に、質問に質問で返すなと、彼女が完全に大人になる前に誰かが教えたほうが良いかも知れない。

「あ、ここ」

 少女はシャッターの閉まった一件の店の前でやおら立ち止まると、隣のビルとの間の細い隙間へひょいと入ってしまった。

 大人がひとり歩くのがやっとの狭くて薄暗い通路には、泥だらけのビニールホースやら片方だけのスリッパやらが散乱していた。僕はそんな所に入り込むなんて、どう考えても気が進まなかった。一瞬その場で待っていようかとも思ったが、結局、観念して少女の後を追うことにした。

「痛てっ……」

 慌てたのと狭いのとで、エアコンの室外機にしたたか脛をぶつけ、僕は思わずその場にうずくまってしまった。痛みに堪えて脚をさすっていたのはほんの数秒間だったが、立ち上がった時には既に少女の姿は無かった。

〈これだから子供は好きじゃないんだ〉

 こんな所で置き去りにされるとは思ってもみなかった僕は苦々しい思いで通路を見渡すと、三メートルほど先に半分開きかけた扉が見えた。少女はそこから中に入ったのだろうか。近づいて覗いてみると、扉の中は墨を流したようで不自然なほど真っ暗だった。手探りで前方へ進みながら扉の中へそろりと一歩足を踏み入れると、辺りに漂う妙な臭いが鼻を突いた。

 普通に生活の中で出会う悪臭とは少し違う、何か鼻腔の奥にこびり付くような不快な臭いだった。このまま進むべきか、それともやはり表通りへ戻って待っていようかと逡巡しているうちに、段々と目が暗闇に慣れてきた。入り口の両脇にはダンボールが山積みになっていて、そのうちのいくつかには魚を頬張って満足げに笑う魚のイラストが印刷されているのが見えた。

 魚が魚を食べる?

 海では大きな魚が小さな魚を食べる。食物連鎖とはそういうものだ。しかしそれを忠実にイラストにするのはどうかと思う。

 人間が牛に齧り付いているイラストを牛肉のパッケージに描くデザイナーはいない。そんなものを見せられたら一気に食欲が失せてしまうだろう。まぁ、魚の餌は人間の食欲とは関係がないから、これはこれで良いのかも知れない。

 魚は魚、人は人だ。

 とにかく全体の感じから推測するに、どうやら僕は観賞魚店の倉庫に入り込んだらしかった。山と積まれた段ボールの隙間の奥にアルミサッシの引き戸があるのが見えた。店内へと続いているのかも知れない。あの少女がそこを通ったのか確信はなかったが、引き戸が少し開いているところを見るとその可能性はありそうだったし、彼女とはぐれたまま父親の待つカフェに戻る訳にもいかない。

 扉の向こうを覗いてみると、案の定、そこにはぼうっと光る観賞魚の水槽が所狭しと積み上げられていた。ますます強くなる妙な臭いに軽い吐き気を覚えつつも、僕は店内へと二、三歩足を踏み入れてみた。

 そしてその時、バシャっという音と同時に、スニーカーを履いた足先に何か冷たいものを感じた。

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