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小説『ウミスズメ』第十二話:飛行機・実存・魚のタトゥー

【前話までのおはなし】
僕は名前が無いことをユトに話し、それを秘密にするように頼んだ。
すると彼女はこう言った。
「じゃあ、秘密にしておいてあげる代わりに、私の家庭教師になってくれる?」


 僕がこの子の家庭教師? そんなの絶対無理に決まっている。

 あれこれ抵抗してもよかったのだが、結局僕が言ったのは「最初に言っておくけど、僕は学校に行ったことはないよ」だった。

 そして「いいよ。面白いじゃん」というユトの一言で、密約成立となってしまった。

 しかし僕は、ユトが何を言おうと最後の砦があると思っていた。ユトの父親である魚カフェのオーナーだ。いくら何でも見ず知らずの僕を家庭教師として雇うなんて、彼が承知しないだろう。

 具合も大分良くなったので、明日の朝また魚カフェに行くとユトに約束して、僕は家路についた。

* * * * *

 いつものように鬱蒼うっそうとした庭を抜けて家へ戻り、窓を開けた。ムッとするような草いきれに乗って、途切れ勝ちに鳴く蝉の声が聞こえる。世の中へ出て間もないのか、まだ調子が上がらないようだ。

「蝉よ、お前もなんだか……パッとしないな……」

 流し台の前で胃薬を飲んでから、布団の上にごろりと横になった。

 そのままぼんやりと今日の午後の出来事について考えていると、ハンバーガー店で思い出した飛行機の轟音が脳裏に蘇えった。

* * * * *

 僕には、飛行機について思い出すことが一つある。

 まだ小さな子供の頃のことだ。僕は母に連れられて道を歩きながら、小学生向けの物理の本を読んでいた。

「ちゃんと前を見て歩かないと、いつか転ぶよ」そう母にたしなめられたが、僕は読むのを止めなかった。

 それは「光と音の伝播」についてのページだった。しかしその時の僕は、物理の法則よりもページ下のコラム〈物理こぼれ話〉の内容に魅せられていた。

 それはひとつの問いから始まっていた。

「Q: 人類が絶滅した後、誰もいない森で木が倒れたら音はするのでしょうか?」

 その本での答えは〈ノー〉だった。空気の波は発生するが、聞く人が誰もいなければそれはただの空気の移動であり〈音〉ではないということらしかった。そしてその時、いつもの聞き慣れた音が近づいて来るのに気付いた。空港から離陸したばかりの飛行機だ。

〈これも僕がいなければ音じゃ無いのかな〉

 飛行機が銀色の腹を見せて頭上を横切り、だんだんと高度を上げてどこか知らない外国へ向かって飛び去るのを見送る間、僕は〈なんだかヘンなの〉と考えていた。

 今思えばそれは物理学ではなく、むしろ哲学に分類されるような、昔からある割と有名な議論だ。しかも当時の僕は、そのコラムの文章をちょっと誤解していた。問題は僕がいるかどうかではなく、人間の観念と存在との関係性なのだった。

 誰もいない世界なんて在り得ないかも知れない。そもそも「誰もいない」ことを誰かが認識する必要があるのだから、設問自体が自己破綻している。しかし人は「誰もいない」ことを想定することができる。僕自身が、僕が存在しなくなった後の世界を考えてみることができるように。そして、それは一体誰目線なんだ、という話だ。

 大昔の人は〈それは「神様」目線なんだ。だからやっぱり神様はいるんだよ〉と考えた人も多かった。さすがに今では科学や生物学や物理学や心理学にお鉢を預けた格好になっているようだが。

 一体どんな理由で、児童書のコラムにこんなことが書いてあったのかは分からない。ただ大人になった今でも、何故かその日のことを僕は鮮明に覚えている。

* * * * *

 その時、開け放した窓の外から微かに音楽が聞こえてきた。距離と方向の感じからすると、庭の物置小屋が音源のようだ。例の少しリッチなホームレスが、ラジオかCDでも聴いているのだろう。あの音は聞く者が誰一人存在しない世界では音楽ではないのかも知れない。

 考えてみれば僕はあそこに居るであろう人物を実際にこの目で見たことはない。だからといって、それを理由に僕が彼の存在を全否定したところで彼は気にもしないだろう。

* * * * *

 次の日、僕はユトに約束した通り、魚カフェへと向かった。

 家庭教師の件については、せめてユトの父親は常識的な判断をしてくれるだろうと楽観していたのだが、拍子抜けするほどあっさりと受け入れられてしまった。

「夏休みが開けるまでならいいよ。その代わりこの店の中で教えてもらうんだぞ」

 オーナーはユトの頭に手を置いてそう言うと、僕に向かって「バイト代はそれほど出せないけれど」と苦笑いした。

「ちゃんと勉強するんだぞ」とユトに言って、彼はカウンターの向うへ戻って行った。

 ユトは初めて会った時と同じ、無表情を絵に描いたような顔をしていた。

 僕はハンバーガー店でユトが言っていた海宝佐智夫の件をオーナーに確かめたかったのだが、何となく言いそびれてしまった。そもそもあの借家は海宝佐智夫が借主なのだから、僕に用があるのなら、彼は直接あの借家へ来れば良いだけの話だ。それがこんな処に来て何をしていたのか見当もつかなくて、ちょっと薄気味が悪かった。

 仕方なく僕はユトの指定席で彼女の向かい側に座り、とっかかりを探して店内を見回した。成り行きとはいえ家庭教師を引き受けた以上、何かした方が良いだろうと思ったのだ。

 相変わらず壁一面の水槽の隙間を縫って、様々な魚の絵が飾られていた。そして僕の目が自然と入り口付近のあの不思議な絵に引き寄せられていくのに、ユトが目ざとく気づいた。

「あれは珍しくマッキーが飾った絵なんだ。そう言えば、何かのシンボルだとか言ってたかも。ちょっと待って、調べてみるから」

 そう言うと、彼女は目の前のノート・パソコンのキーボードを叩き始めた。

「ichthus〈イクトゥスまたはイクテュス〉。キリスト教のシンボル。〈イエス・キリスト、神の子、救世主〉をギリシャ語で書いた時の頭文字……だってさ」

「ふーん。君のお父さんはクリスチャンなの?」

「まさか。家には仏壇も神棚もあるもの。お葬式だってお寺でやったし……」そこでユトは少し言い淀んだ後「これはただのインテリアだよ」と、何かを打ち消すように頭を大きく振ったので、無造作に束ねられたポニーテールが大きく左右に揺れた。

「あぁ……そう。でも、なんで魚の形なんだろう」

「えーっと、『イクテュスはギリシャ語で〈魚〉という意味でもある』って書いてある」

 そして更に検索を続けた結果を見て、彼女は目を丸くした。

「ねえ、画像検索に凄く沢山画像が出て来るよ。かなり有名な図柄みたい」

 ユトはノート・パソコンをくるりと回し、画面を僕に見えるようにしてくれた。

 パソコンの画面いっぱいに広げられたブラウザには、アルファベットで構成された魚の意匠が繰り返し並んでいた。昔の壁画のようなものからTシャツやペンダント、自動車のバンパーステッカーまである。カフェの入り口の絵と見比べるとバリエーションはあるものの、モチーフとしては同じものだった。検索結果を三回ほど下へスクロールした時、何故この絵がこんなにも気になっていたのか、僕にはやっとその理由がわかった。

「わあ、タトゥーまであるんだ」

 横で一緒に画面を覗き込んでいたユトが呟いた。

 さも自慢げに筋肉を盛り上げた屈強な外国人男性の二の腕にあるタトゥーは、僕の母の左肩に小さく彫ってあったものに酷似していたのだ。

* * * * *

「お母さんがタトゥー入れてるって凄くない? もしかして、アーティスト系とかなの?」

 ユトは明らかに興味を引かれた様子で身を乗り出してきた。僕は、母はアーティスト系とかでは全くなく、在宅系のプログラマーだったし、五年前に失踪して以来、何処にいるのかも分からないのだと話した。

「何で急にいなくなっちゃったの?」

 それは僕だって是非知りたい。ただ、急と言えば確かに急だったが、今思えばそれを予感させるようなことは何度かあった。

 例えば、時々母は飛行機を指差して「私がいなくなったら、あれに乗ってメキシコへ行くといいわ」と言っていた。行先は言う度に違っていて、チベットだったりアリゾナの砂漠だったりした。

 だから母の失踪後、僕が一番最初に考えたのは〈空港へ行って飛行機に乗る〉ことだった。

 しかし未成年なのは言うに及ばず、行き先もあやふやで、パスポートはおろか国籍すら無い人間が、なんとなく飛行機に乗って越えられるほど国境というのは甘くはないのだ。僕は毎日のように空港の見える丘の上の公園に行っては、発着する飛行機をただ眺めていた。

「ねぇ、これから行ってみようよ、空港に」とユトが目を輝かせた。

「ダメ。お父さんの言い付けを聞いただろ。このカフェの中で勉強することって」

「もう、ここにいると息が詰まりそうなんだもん」そう言ってユトは、テーブルに乱雑に置かれた教科書の端を如何にもつまらなそうにペラペラと弾いた。

 僕が小さい頃は一人でいるのが当たり前だと思っていたので気にもならなかったが、確かにこの年頃の子供が一人ぼっちで、狭いカフェの隅で過ごすのは退屈なのかも知れない。僕がテレビドラマでよく見る子供たちは、友達とさほど重要でないことを喋ったり、ゲームやスポーツをしたり、親と喧嘩をしたりしていた。

 目の前のユトを見ると、口元に微かに不満もしくは不安のようなものを漂わせて、ボンヤリと教科書を眺めているだけだった。少し気の毒になった僕は、ある提案をしてみることにした。

「それより君の学校が見てみたいな。僕は学校に行ったことがないからさ」


参考:「イクトゥス - Wikipedia


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