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小説『ウミスズメ』第十話:ハンバーガー・生存戦略・多様性の世界

【前話までのおはなし】
少女ユトの不登校に、カフェのオーナーである彼女の父親は困惑するだけだった。
彼女が他人を苛つかせる要素をいろいろと備えていることは否定できないが、僕には関係ないことだ。
これで二度と彼ら親子に会うことも無い。僕はそう思っていた。

 店の前の通りでひと息つき、手の中のデジカメの電源を入れた。

 撮影した画像を見てみると確かにあの魚の絵が何枚も写っていた。正確には、絵と言うよりもロゴマークかモノグラムに近い。デザイン化されたアルファベットが五つ並んでいる。フグ騒動やら何やらいろいろなことがあって、この写真を撮ったのが随分前のことのように感じられた。

 この後の予定もないので、周辺の店を眺めながらゆっくりと吉祥寺の駅前へ向かって歩き始めた。今日はまだコーヒーしか腹に入れていないことを思い出し、通りかかったハンバーガー店に入ることにした。

 結局、朝に――正確には昼だが――感じていた予感は、何でもなかったのだ。人生なんてそんなものだ。宝クジが当たる夢を見たところで本当に当たる訳ではない。人が死ぬ夢を見る度に誰かが死んでいたら、たまったものではない。

 僕はハンバーガーとフライドポテトが乗ったトレーを持って、ショッピングモールに面した窓際のカウンター席に座った。ポテトをつまみながら、目の前を行き交う雑多な人々を眺めていると、ガラス窓を隔てた向こう側には違う世界が広がっているような気がした。

 遅い昼飯を終えてオフィスに戻る会社員、買い物に出て来た主婦、荷物をトラックから引っ張り出す配達員、コンビニの前で煙草を吸う老人、黒い前掛け姿でビラを配る焼肉店のアルバイト、階段を上ってネットカフェへ向かう若い男。ガラケーで何か話をしながらしきりに汗を拭いている太った営業マン。

あらゆる人間が自分のやるべきことに集中していて、しかもピッタリとはまっているように見えた。たったいま目の前を横切っていった男の水色のアロハシャツにすら、ちゃんと意味があるようだった。ガラスの外では、僕とはおよそ関係の無い世界が僕の存在などには頓着せず、それ自身で自律的に展開されていた。

 水槽の魚になったような厭世的な気分に浸っていた僕の目の前に、突然見覚えのある顔が飛び込んできた。彼女はガラスの向こう側からこちらをじっと見つめると、僕の視界からするりと出て行った。

「海宝佐智夫って、あなたとどんな関係?」

 程なくして、背後から聞き覚えのある少女の声がした。のろのろと振り向くと、ハンバーガー店の中にいつの間にかユトが立っていた。

「どうやら、それがあなたの隠していることみたいね」

「何の話?」

 一応、しらを切ってはみたものの、実のところ僕はかなり狼狽していた。何故なら、僕が又借りしている代田橋の家の借り主が海宝佐智夫という名前の男だったからだ。暫く前から東京にはいない筈で、だからこそ僕があの借家に住んでいるのだ。その人物の名前が何故、この縁も所縁ゆかりもない少女の口から飛び出したのか、正直、全く理解できなかった。

 僕の反応になどお構いなしに、ユトは更に続けた。

「昨日あなたが帰った後、その人、ウチに来たのよ」

 顔色ひとつ変えずに、とはいかないまでも、僕は何とか平静を装って探りを入れてみることにした。

「ふーん、そうなんだ。だけど何だってまた、その海宝佐智夫とかいう人物と僕が関係があると思うの?」

「あなたの名前も海宝さんでしょ? 海宝悟。昨日の朝、マッキーにそう言ってたのを、私、聞いてたもん。〈海宝〉なんて、立て続けに二人も偶然に現れるほどありふれた名字じゃないし、どう考えても何か関係があると思うじゃない? 親子とか親戚とかさ」

 親子? 僕の知っている海宝佐智夫は、僕と同年配くらいの若い男だ。今の借家を又借りする時も、どうサバを読んでも親子で通じる外見ではなかったから自然と兄弟の設定に落ち着いたのだ。

「残念だけど僕はその人のことは知らない」

 僕はそう答えた。それは嘘だったが、少し成り行きを見ることにしたのだ。するとユトはカウンター席の僕の隣の椅子に、するりと身体を滑り込ませてきた。

「本当に? 何かあなたに渡すものがあるらしいわよ」

 そう言いながら組んだ両腕をカウンターテーブルに乗せた彼女の、横目でこちらを盗み見るような眼つきは、どう見ても僕の返事に納得しているようには見えなかった。何がしかの利益をちらつかせて僕に本当のことを言わせようとしているらしいが、あまりにも子供じみた小芝居が状況を台無しにしていた。

「あのね、これは本当に君の為に言うんだけれど、そういうのはやめた方がいいと思うよ」

「そういうのって?」

「知らない人間に変に絡むこと。学校に行かずにパソコンばかりいじっていること。下手な嘘で大人を騙せると思うこと」

 結構キツイことを言ったつもりだったが、彼女は怯む様子もなくこう言った。

「それじゃあ、私もあなたの為に言うわ。海宝悟さん、あなたは絶対に海宝佐智夫という人物と何か関係がある。私はあなたの隠していることを見つけ出すまで調べることができるし、何ならあなたの雑誌社に問い合わせてもいいのよ」

 そう言い募るユトの顔を見ていて、初めて彼女を見た時からなんとなく感じていたことが突然僕の中ではっきりしてきた。

 彼女は僕の母に似ているのだ。

 勿論、顔かたちではない。怖いもの知らずとも言えるくらい我が強く、子供っぽい純粋さと素直さにしばしば驚かされる。それでいて時折、狡猾なまでに打算的な顔が見え隠れするところもそっくりだ。昨晩、最近は滅多に思い出すこともなかった母の夢を見たのも、そのせいかも知れない。

「わかった、じゃあこうしよう。まず君が、何故そんなに海宝佐智夫のことを知りたいのかを僕に話す。そうしたら僕も知っていることを話す」

 ユトは唇を噛み、少し考えてから言った。

「逆がいい。あなたが先に話して、次が私」

「だめだ。今の状況で君に交渉権はない。知りたがっているのは君であって、僕じゃない。僕が話さなければそれで終わりだ。賭けてもいい、君は一生何も知ることはない。逆に僕の条件を飲めば、君は知りたい答えを今すぐ手にできるかも知れない」

 無論、何一つ手にすることができない可能性もあることは黙っておいた。実際、僕には本当のことを話すつもりは全く無いのだが、頬を紅潮させ僕を睨みつけながら必死に考えを巡らしているらしいユトを見ていて、彼女の反応が段々面白くなってきたのは否定できなかった。

 ユトがふうっと小さく息を吐いた。よし、次に息を吸ったら彼女は話し始めるにちがいない。ここは黙って待てば良い。そう思った時、店の奥からこちらに近づいてくる数人の人影が視界に入った。

 白いワイシャツに紺のスラックス、細い紺色のネクタイをだらしなく緩め、汚れたスポーツバッグを肩に掛けた、如何にも部活帰りの中学生といった少年が三人。彼等は少し離れたところからユトを見て、意地の悪そうな笑みを浮かべていた。

 こちらに正面を見せる価値も無いと思っているのか、一様に身体を斜めに向け、少年達のうちの一人はスマホを弄っていた。雰囲気からしてどう見ても友達ではない。スポーツで日焼けしたのか分からないが、三人の中でも目立って色黒の少年が口を開いた。

「おい、おまえこんなところで何やってんだ? デブでブサイクのくせに生意気に男なんか作ってんのかよ」

 僕は生まれてから一度も学校へ行ったことがない。戸籍も住民票もないので、入学案内のようなものが来なかったのかも知れない。母が学校教育を信用していなかったから、そもそも通わせるつもりが無かったとも考えられる。だからイジメと呼ばれるものも、僕にとってはニュースやドラマで見る以上のものではなかった。しかしどうやら僕は今、それを目の当たりにしているらしかった。

 少年達は、見たところ何処にでもいるような普通の子供だった。しかし注意して見ると、その気になれば直ぐに立ち去れる距離の取り方といい、周りの客の目を引かない程度の声のボリュームといい、随分と手慣れた感じを受けた。

〈別に何もしていませんよ。ただの冗談ですよ。友達をちょっとからかっただけで何が悪いんですか〉

 いざとなればそう言って済ませることができる。それ以前に、そもそもこの程度のやり取りでは、誰も咎め立てることは無い。それらが全部織り込み済みのようだった。

 こうしてみると、子供が大人より持ち駒が少ない訳ではないのがよく分かる。子供が純真無垢だなんて、自分の子供時代を忘れてしまった大人の創り出した幻想なのだ。愛情や素直さだけでなく、妬みや欺瞞、弱さや狡さのカードも、全て大人と同じように、ほぼフルセット持ってはいるが、振り出す技術が未熟なので可愛らしく見えるだけだ。

 この色黒少年は今、試しに振り出したカードが上手く働いている感じに酔っているのかも知れない。人は誰しもこうしたトライ・アンド・エラーを繰り返し、技術を磨いて大人になる。この先、イジメの成功体験を重ねれば重ねるほど、彼は人間関係においてイジメという選択肢を選び易くなる。それが彼の生物としての戦術となっていくのだ。

 イジメる個体とイジメない個体。多様性の世界だ。

 色黒少年の生存戦略がどうであれ、今のユトにとっては迷惑以外の何物でもない。彼女は少年達に背を向けたまま、ガラスの向こうのショッピングモールを見ているふりをしていたが、その顔は不自然に強張っていた。口は真一文字に硬く結ばれ、目線はどこか一点を見て動かない。こんな見ず知らずの子供同士のいざこざは僕には全く関係の無いことだし、正直、興味もなかった。しかし、存在感が薄いのは否定しないが、僕も一応は大人だ。そのまま放っておくのもどうかと思われた。

 僕は立ち上がって色黒少年に歩み寄り、親しみを感じない程度の笑顔を作って右手を差し出した。

「残念ながら僕は家庭教師だよ。君達はクラスメイト?」

 少年はちらっと目線を泳がせた後、僕を無視することにしたようだ。

「あーあ、くだらねぇ。おい、行こうぜ」彼はそう言い捨てて、他の二人と共に店を出て行ってしまった。

「やれやれ」

僕 が振り返ると、ユトは僕のフライドポテトをつまみ上げ、口に運んでいた。

「全部食べていいよ」そう言って僕はポテトの袋をユトの方へ押しやった。

「嘘が上手いよね」

「何?」

「家庭教師だなんて。そうやっていつも適当なことを言ってごまかしてるんでしょう」

 僕なりに助け舟を出していじめっ子を追い払ってやったのに礼を言うでもなく、逆に僕の方が悪人のような言い草に、さすがに少々ムッとして言い返した。

「君に何が分かる」

 僕は普段、滅多に怒ることはない。諍いになってトラブルに巻き込まれると厄介だからだ。しかし今は目の前の少女の存在に、久しぶりに腹を立てていた。

「僕はね……」と言いかけると、ユトが突然こう切り出した。

「そうだ! いっそのこと本当に、私の家庭教師をやってくれない?」


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