小説『ウミスズメ』第十五話:オバチャン・図書室の本・ニーナ・シモン
【前話までのおはなし】
学校の図書室で本を見た僕たちは、途中、料理当てゲームをしながら魚カフェへ戻ってきた。
僕たちが魚カフェに戻ると、中年の女性が店番をしていた。あのフグ事件の時に会ったユトの〈オバチャン〉だ。オーナーは、サンドイッチ用の野菜が足りなくなったので、近所に買い出しに行ったとのことだった。
海宝佐智夫がここで何をしていたのか、またもや知る機会を逸してしまった。しかし、そこで僕はふと疑問に思った。ユトは何故、彼の名前を知っていたのだろう。
「あの後、男の人が訪ねて来たのよ」
〈あの後〉とは、フグ事件の日の午後のことだ。
「マッキーとその人は、何だか知らないけど、あなたのことを話してた」
「僕のこと?」
「海宝悟っていう名前が何度も聞こえたから」
「ふーん。それで?」
「その人が帰る時に置いて行った名刺を、私、後でこっそり見たんだ。それで、その人があなたと同じ苗字なのが分かったの」
ユトはそれ以上のことは何も知らないと言った。
「じゃあ、何でまた、わざわざハンバーガー屋まで僕を追いかけて来たの?」
そこまでして、彼女が海宝佐智夫と僕の関係を知りたがる理由が思いつかなかった。
「実はね、そんなことは別にどうでも良かったんだ。ここにずっと座っているのが退屈だっただけ」
僕はそんなユトの気まぐれで、ここ数日間、随分と振り回された訳だが、不思議と特に腹も立たなかった。
僕が帰ろうとするとユトが一冊の本を手渡してきた。見ると背表紙に図書分類シールが貼ってある、学校の図書室の本だ。
「勝手に持って来ちゃだめじゃないか。怒られるぞ」
「じゃ、バレないうちに明日一緒に返しに行こうよ」
そう言うと、彼女は昼食を食べると言って〈PRIVATE〉の扉の向こうへ姿を消してしまった。
僕は思わず唸った。これで僕は明日もここへ来なければならなくなった訳だ。頭が良いというか、ズル賢いというか、本当に油断のならない子だ。
仕方なくその本を持って僕がカフェを出ようとすると、カウンターの奥からユトの〈オバチャン〉が出てきて、オーナーから預かった家庭教師アルバイト雇用条件のプリントアウトを手渡してくれた。そして彼女は小声で、ユトを学校へ行く気にさせてくれてとても感謝していると言った。
「図書室へ行っただけですけど」
「それでも大した進歩よ」と言って、〈オバチャン〉は僕の腕をぎゅっと掴んだ。
「あの子の母親は去年、病気であっという間に亡くなっちゃったの。本当に、看病すらロクにできなかったくらい」
それを聞いて僕は、今までユトの口から母親の話が一度も出なかったことに改めて気付いた。
「あの子はお母さんが大好きだったから、酷くショックを受けてねぇ。ところがうちの弟ときたら、あの娘は強い子だから大丈夫だなんて言って。やっぱり男親はこんな時はダメよね。何にも分かってないんだから」
* * * * *
僕が自宅へ戻ると、例の物置改め誰かの簡易宿泊テントの前で大家の爺さんと鉢合わせした。
珍しいこともあるものだと軽く挨拶したところ、彼は自ら僕に話しかけてきて、この物置に誰かがガラクタを持ち込んで勝手に住んでいた、といって大変な剣幕だった。てっきり大家が承知で貸しているのだと思っていたのでこれには僕も驚いたが、特に何も言わないことにした。
面倒に巻き込まれないようにさっさと自分の家へ向かうつもりだったのだが、ずっと外側から眺めていた小屋の中がどうなっているのか、僕はどうしても見たくなってしまった。
〈今が最後のチャンスかも知れない〉そう思った僕は、恐る恐るその物置小屋の中へ足を踏み入れてみた。
元々そこにあったであろう泥だらけのスコップや錆の浮いた脚立の手前に、比較的最近捨てられたらしいビールの空き缶、七輪、コンビニの袋、蚊取り線香の空き箱が放置されていた。
昨日まで小屋を覆っていた透明のビニールシートや、照明代わりの電球が取り外されているところを見ると、彼が戻って来ることはもう無いような気がした。一度も姿を見ることなく、今はもういない。なんだか不思議な気がした。
物置小屋を出ようとした時、隅の方に一枚のCDが落ちているのに気がついた。プラスチックケースは大きくひび割れ、ジャケットもボロボロで何が印刷されているのか判別できなかった。僕は反射的にそれを拾い、まだぶつぶつ文句を言いながらそこら辺を歩き回っている大家に気付かれないように、そっとシャツの下に隠してその場を離れた。
* * * * *
家に入ってから改めてCDを取り出して見ると、パッケージこそ酷い状態だったがディスク自体には大きな傷もないようだった。プレイヤーにセットして再生してみることにした。
昔のレコードのように最初に少しの沈黙があった。
それから、女性シンガーが低い声でつぶやくように歌いだした。
僕には、それが誰のアルバムかすぐにわかった。母がよく聴いていたニーナ・シモンだ。
一曲目は『Feeling Good』。空の鳥、海の魚、流れる川、世界の全てに向かって自分の人生の新しい夜明けを宣言している歌だ。
素晴らしい気分だと歌いながらこの曲は、何故こんなにも寂しげなのだろうと、僕は以前からずっと不思議に思っていた。
ジャジーでブルージーなのがその頃の流行りだったのだろう。それでも何か、嬉しい以外の気分もこの曲は映していたのかも知れない。誰しも、そう簡単に手放しで最高の気分になれるものではない。そんな人間がいるとしたら、それはベロベロに酔っ払った時の僕の母だけだ。
その日は午後いっぱい、ニーナ・シモンのアルバムを聴きながらユトが持ち出した図書室の本を読んで過ごした。それは海外の短編集で『無限ホテル』とか『キリンの首』とか『アフリカの鳥』とかいった、何だか不思議な話ばかりが集まった本だった。
* * * * *
翌日の朝、僕は図書室の本を持って家を出た。
雑草だらけの庭を抜ける時にもう一度あの物置小屋を覗くと、昨日あったゴミはすっかり片付けられていた。あの大家が夜中に片付けた可能性も考えたが、それはまず有り得ないだろう。あの〈イカ釣り漁船/蚊取り線香〉男が片付けに戻ったのだろうか。
詫びのつもりか、それともただ運び切れなかっただけなのか、まだ新品に近い七輪が土間の真ん中にポツンと残されていた。僕は何となく可笑しくなって、ニーナ・シモンの歌を小さく口ずさみながら駅へ向かった。
魚カフェに着くと、いつもの定位置にユトが座っていた。初めて見た時と同じように、排煙窓から降り注ぐ朝の光を浴びてノート・パソコンを覗き込んでいる。僕は何の脈絡もなく、彼女も僕の母のように、突然立ち上がってどこかへ行ってしまうような気がして、持っていた本を思わず握り締めた。
僕がユトの向かいの椅子に座わると、彼女はパソコン越しに僕を見てからカウンターの父親の方を向き「マッキー、来たよ」と声を掛けた。
「ああ、海宝さん。あんたに会いたいっていう人が来てるよ」
オーナーはそう言って、カウンターでこちらに背を向けて座っている男を指差した。水色のアロハシャツにジーンズ姿の中年男性が、ゆっくりとスツールから降りて、僕とユトのテーブルの方へやって来た。
「君は海宝佐智夫と名乗った男を知っていると思うが……実は……俺がその、海宝佐智夫なんだ」
ここ数日間で急に謎めいてきた海宝佐智夫が、突然、全く見も知らぬ髭面中年男の姿で目の前に現れたことに、僕は驚いて然るべきだった。しかし、彼が続けて言った言葉は、僕にさらなる混乱をもたらした。
「君に代田橋のあの家に住むよう誘った男は俺の知り合いで、少しバイト代を払って身代わりを頼んだんだ。俺は君のお母さんの友人だ。君とも何度か会っているけど……覚えているかな?」
参考:Nina Simone - Feeling Good (Official Video)
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