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小説『ウミスズメ』第十四話:誰も見たことのない魚・権利とシステム・カレーかシチューか

【前話までのおはなし】
結局ユトの家庭教師をすることになった僕。
学校の図書室で、僕はユトの西洋美術談義を聞くことになった。



「聖マタイは〈天使〉が〈アトリビュート〉だけど、〈財布〉も描かれることが多いんだよ」

「収税人だったからか……」

「そう。でもこのカラバッジョの絵は、アトリビュートがどの人物を指しているのかもあんまりハッキリしなくて、専門家の意見が分かれてるらしいんだ」

 ユトはそう言ってカラバッジョの絵を指差した。美術の話をしている時のユトはとても楽しそうだった。

「へぇ、すごいな。よく知ってるね」

 僕がそう言って褒めると、ユトは照れくさそうに口を尖らせて、他の書棚の方へ走って行ってしまった。

〈なんだかんだ言っても、子供らしいところもあるんだな〉

 僕は、少しだけ家庭教師らしいことをしたような気分になって嬉しかった。

 ユトが机に広げたままにした画集を丁寧に書棚に戻し、僕は図書室散策を続けた。

 ふと思い出して、例の風変わりな物理の本がないか探したが見つからなかった。もっともあの本は小学生向けだったから、中学校には相応しくないのかも知れない。

 ユトのいる場所までぶらぶらと歩いて行くと、彼女は分厚い魚の図鑑を引っ張り出し、何かを探すように手早くページをめくっていた。

 僕はふと〈人類が決して目にすることのない魚は存在するのか〉について、ユトならどう答えるのだろうかと思った。

「誰も見たことのない魚を、君だったら何と呼ぶ?」と僕は聞いてみた。

 彼女は目玉をキョロリと上に向け、少し考えてから「幻の魚」と答えた。

「そうそう、リュウグウノツカイっていう魚がいるんだけど、これがすごいんだよ。銀色で、身体がすごく長いんだけど、頭の上下にヒゲみたいなのが付いてて、これが本当に長いの」

「実在するの?」

「引き上げられたところをテレビのニュースでやってた」

「じゃ、誰かは見たことがあるんだろ?」

「生きている本物を見た人なんて、殆どいないんだよ」

 僕はどうにかして〈誰も見たことのない魚〉を説明したかったのだが、上手くいかなかった。

 ユトは明らかに別のことに関心があるようだった。熱心に図鑑のページを繰り続け、目当てのものを探し当てて言った。

「海宝さん見て、これこれ」

「何?」

「ウミスズメ」

 ユトは、骨ばっていて箱のような形をした魚の写真を指差した。

「これが〈アクアロード〉から消えちゃったフグだよ」

【フグ目ハコフグ科コンゴオフグ属・ウミスズメ】
『日本書紀にある〈雀魚〉はこの魚だという説がある。出雲の海岸にこの魚の死体が大量に打ち上げられたのを見た人が、雀が海に入って魚になったと考えたとも言われている』

「ふーん。そんなに雀に似ているような気がしないな」

「あの消えちゃったウミスズメは、逆に雀になって飛んで行っちゃったのかもね」とユトが呟いた。

* * * * *

 休憩時間になった生徒達が教室から出てくる前に、僕とユトは頃合いを見計らって校外へ出た。

 そろそろ昼食時なのでユトを家へ帰さなければならない。久しぶりの学校をどのように感じたか、彼女の素振りからは分からなかったが、僕たちは道々、ちょっとしたゲームをするくらいには機嫌が良かった。

 その遊びは、通り掛かった家の台所から漂ってくる匂いを嗅いで、そこで作っている料理を当てるというものだった。魚の焼ける匂い、醤油の焦げる匂い。昼食時なのであちこちから様々な料理の匂いがした。

 一軒の家の前でユトが鼻をひくひくさせて言った。

「あ、カレーだ」

「いや、シチューかも知れないよ」

 ごく一般的な市販のルウを使う作り方なら、途中まではカレーもシチューも匂いはほぼ同じだ。炒めた肉と野菜を煮込んでいるだけだからだ。どちらなのか嗅ぎ分けようとしてみたが、結局分からなかった。ルウを入れて初めて、それはカレーやシチューになるのだ。

 ユトは料理当てに飽きたのか、またもや質問攻めを開始してきた。

「海宝さん、戸籍が無いなんて不便じゃないの?」

「まあ、不便なこともあるけれど、気に入っている部分もある。あちこちから何だかんだ言われずに暮らせて、気楽だからね」

「ふーん。そうなのかなぁ。でもその代わり、やる権利のあることもできないんだよね。海外旅行とか、選挙とかさ」

 そうかも知れない。しかし別の見方をすれば、権利は人間存在にとって絶対的なものではなく、行使できるシステムが共有されていなければ成立しない。ここでライオンが襲ってきたとして、お前は僕を襲う権利はないぞと怒鳴ったところで、ライオンが僕の言い分に従って〈失礼しました〉とばかりに退散することはない。

 ライオンは権利があって僕を喰おうとしているのではなく、喰う自由があるから喰う訳でもない。ライオンと僕では属しているシステムが違うのだから、これは致し方ない。

 本人達は普通に暮らしているつもりのユトやユトの父親だって、この日本というシステムから一歩外へ出ればその権利も自由も、どこまで維持できるか怪しいものだ。

 そうは言っても現実には、ここ最近の僕は何かにじわじわと追い詰められているような感覚があって、少し嫌気がさしてきたのも事実だった。僕は名前を知られた瞬間に雲散霧消してしまう妖精ではないのだ。

* * * * *

 あの日、僕は母と河川敷を歩いていた。

 五、六羽のスズメが一斉にパッと飛び立ち、白っぽい土埃を巻き上げて目の前を横切っていった。ハッと気付くと、飛行機が轟音を響かせて頭上を越えてゆくところだった。夏の空を覆わんばかりの大きな機体が、照りつける太陽を遮って目の前の道に大きな影を落とす。銀色の腹を翻し、ちょっと怖くなるくらいに低空を飛行していた。

 僕は、誰も行ったことのない深海に住む、まだ誰も見たことのない、名前の無い魚のことを想った。

 それは誰にも聞かれることのない音のように、名指し難い何かとして、それ自体で存在しているのだろうか。

 深い海溝の底で、その何とも呼べない存在が、誰も見たことのない鱗を輝かせて優雅に浮遊する様は、頭上を横切っていった飛行機のように、様々な連続性と関係性で成り立っている世界から切り離され、自由に存在しているもののように感じられた。

* * * * *

 僕は数メートル先を歩くユトの背中に向かって呟いた。

「君のところの魚が見たくなったよ」

 僕にだって、時には癒しが必要なのだ。


参考:ウミスズメ (魚類) - Wikipedia



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