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小説『ウミスズメ』第八話:忘れ物・ウミスズメ・アクアロード事件

【前話までのおはなし】
疲れて眠ってしまった僕は、久しぶりに母の夢を見て目を覚ました。
ある日突然、僕を含めて全てを後にしていなくなった母……。
そして僕に一通のメールが届いた。あの魚カフェからだ。
「カメラを忘れています。取りに来てください」

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 翌日、昼過ぎに布団から起き上がり、のろのろと出掛ける準備をした。

 昨日あれほど酷い目にあったばかりで気は進まなかったが、僕は魚カフェに行くことにしたのだ。警察沙汰の危険はまだ去った訳ではないのに、何故あのカフェへ戻るのか自分でもよく分からなかった。

〈あのカメラをとても気に入っていて取り戻したいからだ〉

 そんな風に自分なりに納得しようとしてみたが、むしろ自分ではない何かが勝手に身体を運んでいるような感覚だった。

 何とも釈然としない気持ちのまま代田橋の駅に向かって歩き出し、ふと高速道路の高架を見上げると、頭上に深い蒼色の空が拡がっていた。昨日の暑さから一変して、風は冷んやりと肌に心地よかった。いつもは見渡す限り薄っすらと靄のかかったような空が拡がるこの辺で、これほど美しい青空を拝めるのはひと夏に何日もない。

 そのせいかどうかは分からないが、必要以上に楽観的になっている自分に僕は少々困惑していた。気持ちは何かしら良い予兆を抱えているが、保身第一の理性の方は必ずしもそうではない。そんなチグハグな調子のまま電車に乗り、気が付くと魚カフェの扉の前に来てしまっていた。

 入口の扉を開けるとその中は、これが同じ場所かと思うほど、昨日の朝とはまるで違う雰囲気だった。店内は照明で隅々まで明るく照らされ、コーヒーの良い香りが立ち込めていた。席は半分ほど埋まっていて、意外にも割と繁盛しているようだった。

 客層はバラバラで、四十代くらいのTシャツに短パンの男がカウンターでスポーツ新聞を読んでいるかと思えば、入り口付近のテーブル席では大学生風の若い女の子が二人、水槽の中の鮮やかなオレンジ色の魚を指差してはしゃいでいた。

「いらっしゃ……あれあれ、昨日の雑誌記者さん。今日はどうしたの?」

 そう言いながら髭のオーナーがカウンターから出て来た。受け取ったメールのことを話すと

「メール? ああ、それじゃあきっとユトだよ。あそこに座っているから聞いてみて」と言って店の隅を指差した。

 一番奥のテーブル席に、あの少女が座っていた。

 天井近くの排煙窓から射し込む光の下でノート・パソコンを開き、熱心にキーボードを叩いている。その姿を見て、僕は昨日も同じ違和感を感じたのを思い出した。そう、何故この少女はいつも制服を着てこのカフェにいるのだろう。

「昨日は何だか、本当に申し訳なかったね。まあまあ、コーヒーをご馳走するから、ゆっくりしていって」

 オーナーはそう言うとカウンターの中へ戻って行った。あの少女と話をするのは気乗りがしなかったが、こうなった以上しかたがない。彼女のいるテーブルに近づいて声を掛けた。

「こんにちは、ユトさん……だっけ? メールを貰ったんだけど、君が送ってくれたの?」

 彼女はパソコンに視線を落としたまま「そう」とだけ答えた。

 またぞろ、面倒くさい予感がした。どちらの質問に対しての肯定なのだろう。

〈そう、私の名前はユトだ〉なのか、それとも〈そう、メールを送ったのは私だ〉なのか。ひとまず、その両方だという前提で話を進めることにした。

「カメラを……」と言いかけると、いきなり彼女が話し出した。

「ウミスズメ泥棒だったんだよね、あれ」

「え?」

「〈アクアロード〉事件のこと」

 それは昨日の観賞魚店の話のようだった。

 曰く、〈アクアロード〉の店長が朝に出勤すると、店の通用口の鍵が開いていた。不審に思って店内を調べると、ユトが受け取る筈だった観賞用フグの水槽が泡でいっぱいだった。

 フグの種類はウミスズメ。このウミスズメという奴はとてもデリケートな生き物で、ストレスを感じると皮膚からパフトキシンという粘液毒を出すが、どうやら水槽の中がその粘液で充満していたらしい。

 ウミスズメが暴れたか、空気を送る装置で水が対流したせいか、粘液が攪拌されて泡だらけになったらしかった。フグの粘液毒は同じ水槽にいる仲間を殺してしまったり、自分の毒で自分自身すら死んでしまうことがある。

 慌てた店長は魚取りネットで水槽の中を掻き回し、泡だらけの水の中からウミスズメを救出しようとした。そして水槽をひっくり返すという大失態を犯したのだ。更に悪いことに、割れたガラスか何かで手をザックリと切ってしまった。あまりに出血が多かったため、彼は何もかも放り出して近所の病院に駆け込み、その直後に何も知らない僕らが訪ねて行った。

 これが〈アクアロード事件〉の顛末らしかった。

「病院から戻った店長がお店を片付けたら、何も盗られたものはなかったんだけれど、割れた水槽に入っていた筈のウミスズメがどこにも見当たらなかったんだって」

 彼女はそこでやっと、パソコンの画面から視線を上げて僕を見た。

「で、ウミスズメ泥棒だってことになったらしいんだけど……おかしいのよね」

「ふーん。……何がおかしいの?」

「店長が水槽をかき回した時には、ウミスズメは確かにいたんだって。だからすくい上げようとしたんだよね。でも水槽が倒れて割れちゃったから、ウミスズメも床に落ちたワケ。たぶん死んじゃったんだと思うでしょ?」

 まぁ、普通そうなるだろうなと僕は思った。

「で、店長が病院から戻って床を掃除すると、今度はどこにもウミスズメが見当たらない。死んだ魚が歩いてどこかへ行く筈がないのに、おかしな話でしょ?」

「まぁね。それで……警察は何て?」

「警察?」

「警察を呼んだんじゃなかったっけ?」

「ああ、警察ね。一応ひと通りは調べたんじゃない? マッキーも立ち合ったみたいだけど、別に何も言ってなかった」

「マッキー?」

「うちの父親だってば。昨日言ったじゃん」

 そう言えば聞いたような気もするがいちいち憶えてなどいない。だが彼女の話からすると、いずれにしても大した事件ではないらしいので僕は少し安心した。他人の面倒に巻き込まれるのだけは勘弁して欲しかった。しかし、ほっとしたのも束の間、ユトの一言に僕はまたもやドキリとさせられた。

「あなた、何か隠してることがあるでしょ」

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