文学の街角に佇んで〜わたしの舞台裏|エッセイ
テオフィル・ゴーチエやデュマ・フィス、オスカー・ワイルドらに長く憧れながらも、二十歳頃ではまだ訪れたことのなかったヨーロッパ。
私の前に現れたそのひとは、そんなヨーロッパの、秋の薫りのする人でした。
紆余曲折の末、文学部・英文学専攻に在籍していた大学生の頃、選択科目の履修を通じて知り合った独文学専攻の助教授。
もし私に文学の師というものがいるとすれば、ただひとり思い浮かぶ面影です。
《文学概論》や、《ドイツ文学講義》といった授業のあと、廊下で「今日はどうかな?」と誘われて――4コマ目のあと、夕暮れが迫る研究室で、広い空しかないようなキャンパスの夕景を見ながら、淹れていただいた紅茶の湯気に睫毛をうずめる。
ドイツ文学専攻でありながら、フランス文学の香りもする方でした。ブリテン諸島というよりは大陸の奥行き。細やかな感性が物腰の柔らかさとなって表れているところも親しみやすくて。
はじめは部屋の中央にある学生向けゼミテーブルでしたが、ある時期から、部屋の奥のソファに案内してくださるようになりました。
その、書棚の陰の隠れ家に座って、夕焼け雲やたそがれの蒼を振り仰ぎながら――白い壁にかけられた絵が毎回のように変わるので、興味深く拝見していました。
エゴン・シーレのお好きな先生は、あの有名な自画像や、エッジの効いた肉体のラフスケッチなど、その時々にかけておられ、世紀末ウィーンの混沌とエネルギーを、私に示そうとなさっていたようにも思います。クリムトもよく見かけました。
かと思うと、ドイツの教会にまつられている、木彫りの受難像の写真集が、何もないテーブルに置かれていたりして。
整然としていながら、人間の光と闇が浮かび上がるような――無機質な中に情念のかすかな陰影を感じさせる部屋でした。
(↑Stratford-upon-Avon、シェイクスピアゆかりの地)
英文学専攻の教室での学びは、英語そのものについての科目(音韻論など)と、英米文学を読み込む科目(ディケンズ、シェイクスピア、ホーソーン、ヘミングウェイ、詩など)がありましたが、どちらかといえば知識ベース。その中に各先生の個性が浮かび上がる、非常に興味深いものでした。
大学と家を往復し、ひたすら勉強に忙殺された学生生活。猛然と取り組まないと終わらない課題と予習。大学受験の頃を思い浮かべたくなるような日々でした。
でも、1年次は場違いな学部に入学してしまったこともあり、文学部に転部してからは水を得た魚。同じ努力でも、好きな事柄ならそれほど苦になりませんものね。
単調といえば単調な日々でしたが、静かに光る宝珠を胸に抱いて過ごしていられたのは、課外授業ともいうべき、放課後の対話のおかげだったのかもしれません。
この時間がなかったら、私の文学部時代は、やや乾いた、つまりとても健康的なものだったのでしょう。
今にして思えば、私が初めて嗅覚で感じ取った"文学"――もちろん全方位へ広がるすそ野のうちのごく一部なのですが――は、純粋でありながら毒々しく、そして、聖なるよどみを湛えた深い淵。
島尾敏雄『死の棘』、ブレヒト、ギュンター・グラス『ブリキの太鼓』。新聞に寄稿なさったモーツァルトのオペラの分析、ヴェルレーヌつながりで、映画『太陽と月に背いて』のディカプリオが美しかったとか、ジャン・コクトーとかユイスマンスとか。
いわゆる、"エロスとタナトス"界の住人で、文学部にのみ棲息していそうな方。私がそういっ方と親しくしたのは、後にも先にもその先生だけでした。
私はまだ大人になりかけの未成熟な年頃だったので、すべてを理解することはできませんでした。未だに咀嚼し続けているような気さえするほど。
絵画やクラシック音楽の知識も、粗末な限り。
そのため、文学によって耕された深みをお持ちの方が、私と話をしてそんなにおもしろいようには思えず――ほとんど聞き役に徹していた私の、未熟さや若者ならではの無防備さを、くすりと微笑みながら見守っていただいていたような気がしています。
今、こうして、過去の思い出をすくい上げて書いているところですが、漱石の『こころ』の冒頭の数行は、この私の感覚を、掌を指すようにつまびらかにしてくれています。
その後段で、「私」と「先生」の出会いが語られますが...。
私自身の「先生」との出会いは、授業の際に提出したレポートに端を発したのだろうと思います。
講義そのものはドイツ文学をテーマにしていたのですが、なぜかその時、私が提出したのは――
私の中にある物語の世界――いえ、私に言わせれば、"外"に広がる物語の世界――と、私自身の関わりについて。想像の産物というよりは、どこかに厳然と存在している"彼ら"と、私との、のっぴきならない関係について。
一方ではとてもこわれやすく儚いその世界。
返却されてきたレポートにはひとこと、「いつか"彼ら"が言葉になるといい」と、万年筆の夜色のインクで記してありました。
先生も、小説を書くのがお好きだったとのこと。読みたいと仰るので、プリントアウトした一篇を差し上げたりもしたけれど。
今もお手元にあると思うと、忍んでいって盗み返したいような、居ても立ってもいられない気持ちになります(苦笑)
「書くのなら、もう少しいろいろ読んだ方がいいかもしれないね」
冷めてしまった紅茶を、もう一度淹れ直してくださる間、その言葉に促され、テーブルに置かれた短編集を手に取ってみたり。
「どれほど不道徳なことを書いても、現実の君自身とは全く関係がないので、そこは切り離していい」――。
私、そんなに不道徳なことを書きたそうに見えるのかな...と、その時は思った程度だったけれど――。
今ではこう思うのです。私たちが暮らしている現実は上げ底であって、その奥に横たわっているのが、"文学"なのではないか...。
人間の存在そのものを時に冷徹に深く見つめることができてこそ、愛ややさしさの本質をも見ることができる。そこに至る道筋のひとつが、"文学"なのだということ。
どれほどの高みへも、深く病んだ水底へも、自在に鮮やかに、十全に行き来できる、文学というもの。
それは、この世に残された数少ないアジール(駆け込み寺、あるいは自由領域)であること。けれどそこに駆け込むには、他者から課された檻を壊し、自分で着込んだ鎧をすべて脱ぎ捨てなければならないということ。
先生の目の前にいたひとりのつたない学生は、どこかに向かって進もうとしていたけれど――最初の、そしてもしかしたら最後の枷となるのが、善良さや道徳といったものなのだろう...と感じられた(実際はそんなに善良じゃないのだけれど)ということなのではないかと思うのです。
私が掘り下げたい不道徳なんて、人間の抱えうる闇と比べれば、情けないほど些細な程度だし――どちらかというと未だに、そこは敬して遠ざけておきたい領域なのだけれど――人間性をみつめるなら、どちらの方位へも等しく目を配らなければならないというのは、よくわかります。
だからこそ「きみは読まないだろうなあ」と言いながら、『死の棘』を敢えて勧めてくださるわけです。
おそらくは、道徳のみならず、すべてのものから自由でよいのだということを示したその言葉。今も折にふれて私をたしなめ、勇気づけてくれます。
でも、自由といっても、勝手気ままな享楽だけではなく、求道的なところもあって...なかなか厄介なものだなあ、なんて、後にエーリッヒ・フロムを読んで思ったのでした。
お話をした帰り道は、駅までのバスをご一緒していました。
風の強い晩秋、お召しになっていたジャケットを脱いで私の肩にかけてくださったときは、ヨーロッパのまだ見ぬ街角にいるような気がしたものでした。
女子校上がりで、恋をしたこともなく。ロミオとジュリエットについては語りたがるくせに、現実の男女の機微にはまったくの朴念仁だったようで。今ではなんとなく、もったいない気もしています(笑)
ちゃんと片想いしておけば良かったなあ...なんて。
今でも、英文学専攻の教室や、先生の研究室に戻りたくなることがあります。
できれば、あの頃よりは少し深まった現在の内面をもって、もう一度語り合うことができたら――。
なにか大いなるものに一心に憧れを抱いてお話をしていた、たそがれの、不思議な時間。
ふと匂い立つあの頃の憧れを記憶の静寂深く沈め、大洋に浮かぶ船の舵輪に手を添えて――。
今日も私は書き綴っているのです。「いつか"彼ら"が言葉になるといい」と記されたブルーブラックの文字ゆえに、聖域に向かう航路の自由さに、戸惑いながら――。
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