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最後のひとつをママにあげる「やさしさ」

幼少期から、私は「良い子になりなさい」と厳しい躾を受けてきた。

「こういう時には、こういう言葉を」と、ロールプレイングでセリフを刷り込まれて、自分の心から発する言葉というものに縁がない。

いつも、何かを父親の前で話すときは「これで、マルかな?」と顔色を見ながらビクビクと発言していた。

「食べ物を半分こするときは大きい方を人にあげなさい」

「何か一つ残ったら、自分ではない誰かにおすすめしなさい」

それがどれだけ好物でも。それが、「良い子」に必要な「やさしさ」だと擦り込まれた。

もちろん当時は擦り込まれている!などは自覚無く、そのように自分<他者で物を分配した姿をみて親が喜ぶ顔が、幼い私にとっては嬉しいことだった。

ただ、幼児の時から擦り込まれているので、本当の自分はどんな気持ちになるのかが、わからない。全般的に自分の内部から自発的に湧き上がることを汲み取って行動に移せられるようになるまでに、長い年月が必要だった私は、娘や息子を育てるにあたっては、漠然と、そんな自分のようにはさせられないなと思った。

だから、例えば、何か食べ物や分けられるおもちゃをお友達が欲しそうにしたとき、自分の娘や息子が「これは私のだからあげたくない」と主張したら、「わかったじゃあいいよ」と、すぐ認める。独り占めした後に「僕も欲しかった」と残念がるお友達の姿を見たり、奪い取ろうという攻撃を受けたりして、何かを感じていって、なるがままに進化していくのを見守る方針でやっている。

なのですが、、

多分、保育園や幼稚園や小学校の教育で「分け合う」ことをふんわりと躾けられていることもあってか、我が子たちは、

「大きい方、どうぞ」

「最後の一つ、お母さんが食べてね」

と言う。えー!いいの?ありがとう!と、毎回いちいち感動してしまう。その姿がきっと彼らの次へのやさしさのモチベーションにもなっているのだろう。

つまるところ、やさしさとは、相対的な関係において発生する要素なので、自発的にやさしくなるという現象自体、観察不可能であって、各自が通ってきた教育現場での刷り込みが大いに影響するものではあり

(あとは、遺伝子レベルでの脳の傾向なども影響することは、さておき。)

大人の世界で「やさしさ」は時に個人の価値観の違いで残酷だとか自己満足だとかでトラブルの原因になったりするのはアルアルだが

そもそも相対的で、所属する集団の価値観によって定義づけられるものなんだから

「やさしさ」だと本人が思って行動することは全部「やさしさ」で、その感覚は、その人が通ってきた人生全ての凝縮の形だ、と思うと

「やさしさ」一つ一つが個性のある尊いものだと感じる。

社会で、世界で、「やさしさ」が色んな形となって放出され広がるしくみに携わりたい、作りたい、と思います。

#やさしさにふれて

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