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「自信」を育てる方法

自分に自信がない。

そんな自分が嫌で、自信をつけたいと思ってる。

そう考えたことのある人は、どのくらいいるんだろう。

さんざん悩んだ結果、わかったのは、誰かに勝たなくても、ストイックな努力をしなくても、自信はつくものだということ。

 ”自信がない自分”へのコンプレックス

「自信をつけたい」

私はそう思っていた時期が長くて、今でも少なからず思っている。

思春期の頃は、自信がないことがコンプレックスだった。

小中学校の頃から社会人になって3年目くらいまで、そう考えると、10年くらいは「自信」をつけるために葛藤していた。


自信をつけるために、私が大切だと思っていたのは「努力すること」だった。

例えば、小中高と続けてきたテニス。

筋トレも頑張れたし、走り込みもそんなに苦に感じなかった。自主トレも自主練もした。

そういう努力の積み重ねで、結果と同時に自信もついてくるものだと思った。

でも、結果は残らなかったし、最後は燃え尽きてやめてしまって、努力が自信に変わることもなかった。


もちろん、努力が自信に繋がる経験はあると思う。

例えば、受験勉強。

友達との付き合いも趣味も、好きなことをする時間を削って必死に勉強する。その努力があった結果、念願の志望校に合格する。

「努力」が「結果」に繋がった、こういう場合は、”自分は努力をすることで結果を出すことができる” という自信に繋がることもあると思う。

あの時の努力があったから今の自分がある。

そう思えるような努力は、きっと自分の中でもいい思い出になるんじゃないかな。


でも、テニスの場合、自信が持てなかった理由は、「努力が結果に結びつかなかったから」なのか。なんとなく、それが直接の理由ではない気がしていた。

テニスだけじゃない。

テストのように点数化されるものでは良い点を取ったり、通知表で5をもらえるように工夫したり、スタイルや肌の手入れに気を使ったり、習い事を続けたり、普段の生活で「努力すること」に価値を置いていた。

その結果は、親や先生や友人から褒められることも多くて、同時に、そういう周りからの良い評価をもらうことに気持ち良さを感じていた。

他者からの評価とは別にある「自信」

そうやって振り返ると、「努力」は”周りからの評価のため” だったのかな、と気づく。

後に「承認欲求」というこれにふさわしい言葉を知ったけど、他人からの評価が自分の価値を高めてくれる、そうして自信がもてるようになると、心のどこかで思っていた。

努力して周りから評価される。

それは、私にとってすごく「嬉しい」ことに間違いないけれど、周りからの評価が、真に自信をもたせてくれることはない。

誉められたその時は、前向きになれるかもしれないけど、その気持ちは、他人からの評価に依存しているという点で、ブレやすくてモロい。

それは、「自信」とは呼べない気がする。


 「自信」は“好き”から育つ

じゃあ、どうすれば自信がつくか。

自信を、言葉のまま捉えると、”自分をどれだけ信じられるか”

他者の存在はない。だから、そもそも自信は、他者の評価が入り込めない、何かなんだろうな、と思う。

それは、他と比べずに、自分がどれだけ好きなことに忠実に、没頭できて、力を注げるか。

そういう中で自信が生まれるんじゃないかな、と最近は考える。


私は、「書くこと」には自信がある。

日記は毎日欠かさず、5年も続いて、習慣化してる。

ライティングのお仕事をもらって、書くことが少しずつ仕事に繋がった。

夕方から始めて、気づけば深夜。お腹がすいてる感覚もマヒするくらい熱中することもある。

考えが膨らむと興奮して、ベッドに入っても夜寝つけずに、明け方になったこともあった。

もちろん、他の人のライティングや表現から学んだり刺激を受けることは今もたくさんある。

そういう中でも、「書くこと」に関しては、”他人と比べてどうか” と意識することはない。

読み手を意識することはあっても、他人の書いた内容と比較して良いか悪いかを考えなくていい。

「書くこと」が好きだと思えて、夢中になって、力を注ぐことができる。


それが「書くこと」への自信になっているように感じる。


つまり、自信をつけてくれるのは、努力ではない。

誰かに勝ちたいと思った時、努力が実ることはある。

でも、自信は、努力や勝敗の結果よりも、どれだけ自分の「好き」に向き合って、それに取り組む過程と結果に満足できるかどうかが大きく関わる。


夢中になるうちに、気がつくと、ついてくる。

だから、気を張らなくても、自然な自分の中から育っていくのが「自信」なんじゃないかな。





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