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同性婚と倫理的議論の崩壊

同性婚の是非を問うことは、自動的にヘイトスピーチになるのでしょうか?わたしたちはどのようにして、倫理問題を議論するべきでしょうか?

Word on Fireのロバート・バロン司教のコメントをご紹介します(動画の和訳。動画へのリンクは文末)。

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2013年4月10日公開の動画

バロン司教のコメント:同性婚と倫理的な議論の崩壊

哲学者アラスデア・マッキンタイア氏の『美徳なき時代』はとても良い本です。彼はこの本の中で、現代西洋社会のモラルの低下を嘆くというよりは(事実としてそれはありますが)、もっと深い次元のことに対して嘆いています。より根本的なことです。

具体的に言うと、我々が倫理について理路整然とした議論をする能力を失くしたことに対して嘆いているのです。わたしたちの前提とするものがあまりにも多様化してしまったために――ある意味、「共通言語」を失くしてしまったために――倫理問題を扱う時に必要な共通概念を失ってしまったのです。

わたしたちは「議論」することができているわけではないのです。ただ互いに、相手に向かって一方通行的に話をしているだけなのです。というより、互いに怒鳴り合っているのかもしれません。倫理問題の話題になると。

差別主義者だ! という言葉の威力

最近ふと、アラスデア・マッキンタイア氏のこの考察について思い出しました。ある記事を読んだからです。最高裁が、今話題の「同性婚」について協議していた、というニュースです。その際、エレナ・ケイガン判事が――オバマ氏により、配置されたばかりの人ですが――、彼女はこのように発言しました。

弁護士が倫理的な考察を述べる時はいつも、私の中で「危険信号」が点滅し始めるのです。

とても驚きました。なぜなら、彼女はこうは言わなかったからです。「誰かが倫理に関して粗悪な議論を行った時、危険信号が稼働する」とは。「誰かが、倫理について議論する時」と言ったのです。その時に「危険信号」が稼働するのだと。

今回は、彼女のこの一貫性のないコメントについては深追いしないことにします。「あなたの主張は差別的だ!」と彼女自身が、倫理的見解を述べているわけですけれども。これは横に置いておきましょう。ただ、これだけは言っておきたいと思います。

マッキンタイア氏の言葉が頭に思い浮かびます。「我々は倫理について理路整然と議論する能力を失くしてしまった」のです。となると、わたしたちにできることは唯一、相手側を激しく非難することなのです。「あなたは偏見に凝り固まった、差別主義者だ!」と。

今や、反対意見を持つ人と真剣な議論をすることもなくなりました。公平に意見を述べさせ、客観的にどちらの主張が正しいかを見極めることもしなくなりました。今はただ、相手をけなすことしかしなくなりました。「お前は悪者だ!」と。

これが、多くのキリスト者が、この「同性婚」という議題について不安を覚える理由です。なぜなら、もしあなたが、「同性婚」に対して少しでも批判的な意見を述べようものなら、その事実だけで、あなたは必ず自動的に「差別者」認定を受けるからです。「それは、ヘイトスピーチだ」と決めつけられるのです。

わたしの言うことが信じられなければ、例えばカナダを見てください。カナダでは、この議題は深刻な法的問題にまで発展しました。誰かが、公に同性婚について反対意見を述べようものなら、大惨事です。

相手がコンセンサスについて倫理的主張をしているのか、それとも、ただのヘイトスピーチをしているのか、それとも、リアルな議論を提案しているだけなのか――? このように考えるのは重要なことです。

これこそが、ケイガン判事の発言の中に明白に表れている「議論の崩壊」です。アラスデア・マッキンタイア氏の言葉は、まさに予言的だったというわけです。

世論は常に正しいか?

この「崩壊」の兆しは、他にも見られます。わたしたちの「倫理問題に関する世論調査結果」への執着です。例えば、こんな例はどうでしょう。ほぼ毎日聞きますよね。「同性婚を認めるアメリカ人が年々増えてきた」という主張です。特に若い世代において。

世論調査の結果は、確かに興味深いものです。社会学的、政治的、心理学的には。しかし、世論は何一つ教えてくれません。何が正しくて、何が間違っているかを。

さあ、1945年に戻ってみましょう。もしその頃、この米国で世論調査が行われていたとしたら――例えば、1945年の初夏頃に。きっと98%のアメリカ人はこう言ったのではないかと思っています。「日本に原爆を落とすことは倫理的に正しいことだ。もしそれで戦争を早く終わらせられるなら」と。

きっと多くの善良な人たちが「ぜひやってくれ」と言ったと思います。「このひどい戦争に早く決着がつくならいいじゃないか。わたしはかまわない」と。世論としては「98%のアメリカ人が、無実な人の上に原爆を落としても良い」と答えたということになります。

もう少し歴史を遡ってみましょう。19世紀の初期頃に。もしその時に、世論調査を行っていたとしたら、きっとほんの一握りのアメリカ人しか「奴隷制度は、倫理的に非道である」と答えなかったでしょう。南部でも北部でも、1825年頃の人たちは「奴隷制は妥当な慣習である」と答えたことでしょう。そして、宗教的な根拠すら示そうとしたことでしょう。

私が言いたいのは、「世論調査結果」自体は、わたしたちに倫理的な道理については、たいしたことは教えてはくれない、ということなのです。大多数の人が非倫理的なことを「問題ない」と思うこともあります。倫理的な清廉さを正しいと捉えることのできる人のほうが少数である場合もあるわけです。

正しさ < 気持ち

さて、もう一つの「マッキンタイア問題」の兆しです。「倫理問題の感傷化」とわたしが呼んでいるものです。特に、この同性婚に関してよく見られる傾向です。こういうことです。過去25~30年の間に、多くのゲイの人々が「カミングアウト」しました。そして多くの人が、兄弟、叔父、友達の中にもゲイの人がいることを受け入れるようになりました。

勘違いしないでくださいよ。わたしは、ゲイの人が「カミングアウト」することはいいことだと思っています。自己嫌悪しながら生きることが良いことだとは思いません。それについては、称賛に値するとは思います。しかし、その結果、より多くの人が「わたしの叔父や兄弟やいとこはゲイで、良い人たちだから、同性婚は良いものだ」と言うようになりました。しかし、これは結論としては成りたたないのです。

こうは言えると思います――そう言うべき場合もあるでしょう。「わたしの叔父や兄弟やいとこは良い人である」と。しかし、その論点からは自動的に「まともで良い人が行っていることや求めていることは、倫理的に正しいことである」と結論づけることはできません。何が起きているかというと、わたしたちは問題を感傷化しているのです。わたしたちは論理的に議論せず、感情的なつながりをつくっているだけなのです。

だからこそ、例えばわたしはこういうことにあまり感心しません。ある政治家がこう言ったことがありました――「息子がゲイだと分かったので、わたしは同性婚を支持したい」。もちろん、とてもいいことだと思っていますよ! その政治家がゲイの息子を愛していることは素晴らしいことです。非常に良いことだと思います。

しかし、だからといって「同性婚は必然的に良いものだ」というふうには論理的につながらないのです。そう言うようになれば、わたしたちは問題を感傷化しているのです。それは、議論していることにはならないのです。

さて、注意深くこの動画を観ていた人なら、気がついたことでしょう。この動画の中で、わたしが倫理的議論をしなかったことを。もちろん、意図的にそうしました。そのトピックはまた違う動画で話しましょう。

この動画でわたしが皆様にお伝えすることでやりたかったことは、ただ「霧を晴らす」ことです。それは、この問題について話そうとすることすら、困難があると感じているからです。なぜなら、あまりにも判断を曇らせる事柄が多く、議論しようとすることを妨げてしまっているからです。

マッキンタイア氏の言葉を繰り返します。「この現代文化では非常に難しいのです。具体的な倫理問題について、率直に真剣に論じ合うことは」。

動画へのリンク: Gay Marriage and the Breakdown of Moral Argument - Word on Fire




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