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色々思い出す日まで          ~とある音楽家仲間Aの話~

ある時、とあるミュージシャンに一緒にライブをと誘った。ギャラの出る話なのでこれはお仕事。いつものこと。私が頼んだ。
彼の演奏にはけっこう前にお世話になり、その良さもしっかり知っていたし、同年代でわりと気心も知れていた。

でも、以前から色々と条件を付けてくる人だった。ギャラの額であるとか、何をする・しない、だとか。とりわけ”しないこと”についてしっかりと線引きのある人だった(いい・悪いではなく)。

10年弱前に彼との(仕事上の)付き合いが始まってから、数年のブランクがあって(連絡は取り合っていた)、そしてあらためて頼んだこの時。
彼から、”リハもなし(当日の音合わせのみ)で〇〇円で”、という条件を提示された。
今思えば「その条件でなければ(私とは)やらない」という意志表示だったのかもしれない。が、それはわからない。←後から考察したこと。

そして当日のリハ。私のお願いした曲たちを彼は無難に弾けてはいたけど、その曲の一番キラキラするところ(アレンジとかフレーズ)をとってきていなかった。つまり原曲をちゃんと聴いてきていなかったのだ。聴いていたら(彼ほどの腕なら)そのフレーズがキモとなるものだと気づかないわけはない。
つまり大して考えもせず、私から送られた譜面と数回の音源チェックで本番にのぞんだのだろうと想像。←これも後からの考察。

そのフレーズについて、私はそれをとても大切に思っていたから、その場で「ほら、音源に…」と私が話し始めたら「そこまで聴いてきてないから。」と遮るように言われた。あ、そうか、と私は笑って終わらせた。

単発の仕事での付き合いにおいて、何をどのようにやってきてほしい、というのは相手の裁量に委ねられる。それが同年代で普段でも飲みながら話せるような間柄だとなおさら、”甘え”も出るだろう。みんなそれなりに忙しい。でも、私たちがやっているのは芸術だ。芸術を奏でること・表現して届けることに関しては、甘えがないほうがいい。
というか、あったらそれは二流三流だと思う。
だから当然、カバー曲だったらその原曲は聴いてくるものだし、そこで大切な部分はやはりコピーしてきて当然。と私は思う。

案の定、その本番のあとにお客様からの感想で、「〇〇さん、なんだか冴えていなかったね」と来た。(彼の音を以前聴いたことのあるお客様だった)
そしてそれは私も同じく感じていた。音がキラキラしていないし、心が動かない。やはり、その人の姿勢やスタンスが音に出たのだなと思った。

ひとつの(その日限りの)仕事に全力で準備をしまくれ、とは言わない。
でも、音楽家は音楽を突き詰めてナンボな部分がある。それがどこかの誰かに感動を与える。その熱は”仕事の外”にあるもので、いわば自分のコダワリみたいなもの。
それこそが音楽の醍醐味だとも思う。それを深掘りするために音楽家は存在してると思うし、お給金もさほどよくない&生活が安定しないような中で続ける理由の一つでもあると思っている。

また、その追求の裏(というか芯)には、人を(そして自分を)大切にする心があるんだと思う。だから誰かの心を震わせる。
それは、愛に似たものだからだと思う。

少なくともその仕事にのぞんだ彼の中には、私への誠意や愛はなく、もちろんお客様にもなかったように思う。

そうそう。ちなみにその人は、自分の使っているケーブルの1本を私が「貸して」と言ったお願いを断って、なおかつ「頼み方がおかしい」だの「ノリが部活なのよ。だから云々」だのと言ってきた。頼み方が悪いのか?普通に頼んだだけだが‥と思った私は自分の送った文面を数人に見せてみた。すると全員が「え?これのどこがおかしいの」だった。(また部活のノリも文面からは見えなかったそう)
*ちなみにこのやり取りの中で私はわりとすぐに「わかった、ごめんね」と撤退、借りるのをやめた。(もちろんゴネたりはしないよ)
それに何かを察した彼は「ごめんちょっと明日の仕事でイライラしてて」など少し言い訳して謝罪をした。でも、やはり根本の主張は変わらず。そりゃそうだ。

この一件のあと、”自分にも非が無いかを知って成長したいタイプの私(!)”は、さらに仲間のミュージシャンたちにこの話をしてみた。その人が大切にしている楽器などではなく”ただのケーブル(しかも何の変哲もないもの)”で、”私が持っていないけど彼の楽器ではよく使うものだから何本も持っているもの”を借りたいと言ったら、あなたは貸す?とストレートに聞いてみた。
全員が、「うん、貸すよ」。
もうむしろ「え?なんで(貸さないの)?」という感じのノリだった。
(正直ちょっとほっとした)
このことから思うに、人はこうやって住み分けがなされていくのかも。
親切にできる人、相手のことを考えられる人は、同じく親切な人たちと。
頼まれたこと(音楽仕事)を真摯に準備して行う人は、そういう仲間と。
私はきっと、彼を見誤ったんだと思う。たいてい、目の前の人を”善い人”だと認識するから(私は)。
でも、ちょっと懲りた。また学んだともいえる。

後日、彼の提示するギャラの1.5倍ほどを封筒に入れて郵送することになったのだが、その際に一冊のマンガ(と手紙)を同封した。ちょうどそのタイミングで不思議な巡りあわせで私が出会ったそのマンガはこれ(のマンガ本バージョン)。(https://michikusacomics.jp/product/prates
*あとから思えば彼にプレゼントするために出会ったのかと思うくらい。

この中にあるお話で、天空のような場所に子供たちと先生がいて、つまりまだこっちの世界に降り立ってない子供たちに地球の様子を先生が話すシーンがある。
ちょっとひとりで撮影したから見づらいかもしれないけど、以下の写真の右上に「”自分のもの”ってどういうこと?」と子供が問うシーンがある。

私はまさにこのマンガのここを彼に送り(贈り)たくなり、この本をもう一冊買った(笑)。そしてドッグイヤー(ページの端をちょびっと三角に折る)をつけて、同梱する前に紙で大切に包んでみた。
そして手紙には本番当日にその場で言えなかったほぼ全てを書いた。現場ではお客様がいる。くつろいで浄化されてお帰りいただきたい。だから彼へのネガティブは一切出さなかった。(でも何故か彼は逃げるように当初参加すると言ってた打ち上げも出ずに帰って行った)
私の中で、彼がどんな人であっても素直に正直にありたいと思ったので、いくつかのポイントについて彼に私が感じたこと・思うことを綴った。演奏や条件のこと、そして”貸さなかったケーブル”についての私のスタンスを書いた。マンガについては読んだか、わからない。でも、「なんならお子さんたちにあげて」と一応書いておいた。(たとえ彼が読まなくても、彼の先に存在している子孫がそれを読んで何かを感じてくれたらいいなと思った。)
その後、彼から一本のLINEがきた。ギャラが多めに入っていたことへの簡素な礼だった。なんだよそこかーい!と私は笑った。

そんなわけで、彼との関係性は”今のところは”終わった。
今も彼はどこかで仕事をしているだろう。幸せは祈りたい。
でも、あのままだとなんだかマズいような気もする。
ああいうことをしてしまうということは、愛が足りていないのだろうから
(彼の中に)。それは如実に音(彼の商売道具)にも絶対出るし、家族との関係性とかその他の人間関係にも反映される。そういう法則で世界は回っているように思う。

出したものが、還ってくる。循環。
愛も、優しさも、狭量さも、全ては自分に戻る。

それに気づく日がきたらいいなと思う。
いや、思い出す日、かな。
(マンガでも書いている。「みんなそうやって、あちら(地球)に行くと忘れてしまうの」と)
思い出したその時、私が言ったことや、あのマンガの言わんとしていることがふと理解できたなら、また一緒に楽しく音楽やれるかもしれない。



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