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向上心はない、恒常心はある。

2024年12月18日のあさから。

生きていると、向上心を持てと囃し立てられる。
どうやら向上心を持っていることが、自由競争社会における目指すべき生き方のようだ。

少し書きたいことを書く。


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ボクは、基本的に休めるなら休みたいし、戦いたくない。
大きな夢を持って、それに向かって努力なんかしたいとも思わない。

別に夢に向かって努力している人を否定しないし、むしろ尊敬する。
ただ、往々にして夢に向かって努力していると自認している人は、そうではない人を見下し、バカにしているなとも思う。

※ちなみに、ボクは興味はたくさんあるし欲もたくさんある。



夢を語らせたがる


小さい頃から、社会は夢を語らせるのが好きだ。立派な夢を持っている生き方を押し付けてくる。

ボクはこの試練に、子供ながらに「こんな夢を語ってたら喜ぶんでしょ」と思いながら周りに説明していた記憶がある。
きっと、ボクがもっと要領の悪い子供だったら、無理やり何かしらの夢を語らされていたと思う。

夢を持つことが正しいとされている理由の一つとして、「何か一つの物事に対してひたむきに頑張っている姿が美徳とされる価値観」が関係していると思う。(正直ボクもその価値観が植えついている節はある…)

成長・向上し続けろと言っているようなものだ。
よくよく考えると迷惑な価値観だ。ほっといてほしい。



中動態


ここで今後も出てくるであろうボクの価値観を形成している一つの考え方から考えてみる。

「中動態」という考え方だ。詳しくは別の回で話す。

中動態的に考えると、向上や成長は「結果そうなった」でしかない。
100%コントロールして作り出せることじゃない。

サッカーが好きでずっとボール蹴ってたら、上手くなった。
好きなオンラインゲームでアメリカ人と遊んでたら、少し英語のリスニングが得意になった。

いずれにせよ、結果として成長・向上していると言える。
ただ、これは夢や目標を持って努力して得た結果ではない。
みんなの言っている成長や向上というのは、行動の継続がもたらした副次的な結果だ

向上や成長は、気づかないうちにそうなってるもので、意図的にするものじゃないと思っている。

つまり、結果を表した評価のための単語でしかなく、真に見るべきは行動と変化なのだとボクは思う。



恒常心


人は、恒常心を持っていると思ってる。
そんな説を唱えてみたい。

この言葉をボクなりに定義する。


【恒常心】
心の温度をできるだけ、一定に保とうとすること。
(現状維持バイアスみたいな感じ)

あさの辞典


恒常心は、理性の一種だ。
無駄なエネルギー(熱)を使わないためのプログラムであり、リスクを冒さないために設計してある。

恒常心を持っていたら、基本的に熱心に取り組んだり熱意を持つのはしんどい。理性的な証拠とも言える。

ボクは、ノリが悪い・冷めてると言われることがよくある。
みんなは盛り上がって、その場の熱は上がってるのに、ボクだけ熱が上がってないからだ。ボクは別に楽しくないわけじゃない。ただ、理性的に楽しんでいるだけだ。

向上心や成長もこれと似ている。
社会は「もっと上目指そうぜ!でっかい夢持って、金稼ごうぜ!」と熱狂させようとしてくる。

でも、恒常心を持っている限りはこの熱に惹かれないし、むしろあつ苦しいのだ。

向上心を持てというのは、無理やり熱を上げさせようとする暴力的な言葉に思えてきた。



本能


ここまで考えてみて、ボクが向上心ハラスメントが苦手な理由がわかった。社会の向上心のベクトルに熱が持てないからだ。

でも、熱のない人生はつまらないと思う。

上記の章では、恒常心を持ってると熱を持ちづらいと説明したが、例外がある。それは、本能(好き)で動く時だ。

ボクは、本能(好き)で動き続ける。向上心なんかじゃなく、そんな熱を持った人生にしたいと思った。




「あなたの夢は何?」と聞かれて出てくる夢なんかのために熱は持てない。
これは、理性的に考えらえた目標や夢は、理性の枠を超えないからだ。

だが、本能(好き)で動いていることは内からの熱を発生させている。
向上でも、成長でも、夢のためでもない。

理性の枠組みから外れるのは、本能しかない。
本能(好き)で行動することは、恒常心の外側にあるのだと思う。


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全く一貫性のない文章になったが、これからもこのくらいラフにテキトーに書きたい。


投げられた石にとって、登ることが善であるわけでも、落ちることが悪であるわけでもない。

自省録より


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