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映画館で見るタイミングを逃して、待ちに待ったサブスク解禁の『怪物』を観て、泣く。

2024年12月14日の、あさから。

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映画を観て泣いたのは久しぶりだ。

基本泣くことはない人間なのだが、この映画を観終わって目頭が熱くなった。理由を考えるのは野暮なので考えなかった、というより考えたくなかった。

この映画の批評は、正直カロリーが高い。やめようかと思ったが、共有することで保湿できる可能性が少しでもあるならボクは書く。

言いたいことなんて山ほどあるが、厳選して共有する。気になった章だけ観てもらっても構わない。

※また、ネタバレを含むことを先に伝えておく。



感じてしまった、フェミニズム


湊と湊の母

まず、この映画の注目すべき部分の一つとして群像劇のようにストーリーが進むということだ。特に一つの事件(事実)を軸に進むので、とても伏線が多く、観ている人もストーリーとともに明らかになっていく真実に感情が揺さぶられる。

初めは、湊の母の視点でストーリーは進んでいく。

この、湊の母視点でのストーリーは実に異様だった。
ボクとしては、正直今後の展開を予想してしまい、完全に同情はできなかったが、湊の母はとても不憫に思えた。

そして、この不憫さが章のタイトルにもなっている「フェミニズム」に関係してくる。

湊の母は、息子のことを心配して助けようと奮闘する。ひとりの大人としての常識と節度を持って、事実に対してできるだけ冷静に対処していたように思う。しかし、湊の母に対する周りの対応は、あまりにも非常識だった。(のちに理由はわかるのだが)

ここで、違和感を感じた。

もし、お父さんが抗議に来ていたら学校側は同じような態度をするのだろうか?

ボクは、生活している中でも常々同じようなことを思う。「人を見て対応を変えているのではないか?」と。

弱々しく、害のなさそうな人に対して、世の中は優しくない時がある。
体格が良く、強そうな人に対して、世の中は優遇・忖度する時がある。

つまり、湊の母の常識的かつ真っ当な抗議も女性という立場のせいで、より不適当な扱いを受けたのではないだろうか。

もちろん、この映画でこの違和感は大した意味を持っていないと思うが、ボクは改めて世の中の理不尽を認識した。


子供の純粋さという凶器


同じクラスの生徒たちとのオフショット

子供は、良くも悪くも素直な生き物だ。純粋さゆえの、凶器性がある。

固まってない、ぐにゃぐにゃの粘土のようなもので、目で見て、耳で聞いて、触って体験したこと全てがその子を形作っていく。
そうして柔らかい子供のうちに形成された粘土は、大きくなるにつれて固まってゆき、大人になる頃にはもう固まりきってしまっている。

子供の頃に、大人に植え付けられた常識(ステレオタイプ)はその子の常識になってしまうのだ。

この映画では子供同士のいじめのシーンがあるが、そんなシーンはここでいう凶器の本質ではない。

最も凶器性を感じるのは、子供の嘘が、ひとりの大人を死ぬ寸前まで追い込んだ、というところだ。そして、この子供の嘘には計画性がない。

あるシーンで主人公の湊は、こんなことを言う。

人に言えないから嘘ついてる。
幸せになれないってバレるから。

作中の湊のセリフ

ひとつの嘘が、別の嘘を生んでしまう。
その初めについた嘘にはなんの悪意もなく、むしろ周りと自分を守るためについていたものだったりする。

子供は、この嘘たちを突き通せない。純粋さゆえに。
でも、そのせいでとんでもない凶器になるうる。

ボクは、子供が好きではない。純粋で、まだ、ぐにゃぐにゃだからだ。
まるで薔薇のように、この美しさには棘があることを知っているから。


惑わされる視聴者の怪物性


湊を演じた黒川くん

はじめの章で、少し話したようにこの映画はひとつの事件(事実)の群像劇でストーリーが展開されていく。
なので、視聴者も観進めていく中で、真実のようなものを知っていく。

この映画では、「怪物だーれだ」というキャッチフレーズがある。
題名にも『怪物』とあるように、やたら怪物=真犯人が、隠れているかのようにリードされている。

なので、ボクもこの映画を観ながら誰が怪物なんだろうか、もしくは何が怪物と捉えられているんだろうか、と考えながら観ていた。

そして、観進めて行くうちに予想がどんどん外れていく。

これは、あらゆる視点で解釈することで真実が変わってくるからだ。
なので、序盤ではクズ野郎だと思っていたキャラも、終盤ではいいやつじゃんってなっていたりする。

この現象は、非常に危険だ。いわば傍観者であるボクたち視聴者は正確ではない情報を鵜呑みにして怪物(犯人)を特定し続けていたということになる。

自分は善であるという心を持っているがゆえに、いかにも正しそうな情報を疑いもせず受け入れ結論を出そうとしてしまう。

まさに映画を通して、ボクたち視聴者こそが怪物ではないのか?と考えさせられるストーリーだったのではないかと思う。


見えている因果からしか、真実は見えない


依里を演じた柊木くん

上記の章を少しだけ深ぼる。

この映画では、さまざまなキャラクターの視点でストーリーが展開されて行く。そして、その視点を持ってしてでしか気づくことができない真実がある。また、視点を掛け合わせないと見えないものもある。

だから、それぞれが正しいと思って行っていることが、噛み合わなかったりする。

これに似たような心理現象を「確証バイアス」という。

確証バイアス
自分がすでに持っている信念や仮説を支持する情報ばかりに注目し、それとは異なる情報や証拠を無視したり、歪曲したりする認知的な傾向のこと

また、頭の中で容易に処理できるものは、人に過信をもたらすことを「流暢性効果」という。

これらの心理現象は、人間が当たり前に持っている機能であり、むしろこの機能があることで人間が、人間たらしめているとも言える。

だが、それだけ強い機能だからこそ反作用も大きいことは容易に理解できると思う。簡単に言えば、思い込みの力は絶大だということだ。

話を映画に戻す。

この映画の大人たちは、この確証バイアスと流暢性効果にとても影響を受けている。そして行動している。(観ているボクたちも)

親にとって、教師にとって、子どもを理解するのは非常に困難なことだとは思うが、上記のような心理現象に惑わされないよう少しでも努めて、慎重に行動することが重要なのかもしれない。


でも、好き


作中のシーンより

触れようか迷ったが、ほんの少しだけ触れる。

主人公の湊は、同じクラスの依里を好きになる。おそらく初めて抱く感情に多くの葛藤と戸惑いを湊は見せるわけだが、最終的に自分の気持ちに向き合えて終わる。(多分)

依里は男の子で、湊も男の子だ。なんの問題もない。
とは言えないのが今の世の中だ。

世界は同性を好きになることを拒絶し、周りにいる自分の愛する人たちも、おおよそ同性を好きになることを望む人はいない。

母親からの「結婚して幸せになってくれればそれで十分」というような一見して、純愛によるささやかな言葉もとんでもなく辛かったりする。

そして何より自分が、一番身をもって拒絶反応を起こす。

自分が男であることを身体的に感じるたびにこの反応は強くなり、感情を否定する。

それでもなお、好きで、いなくなると苦しいのだ。

ボクも、湊が依里に抱いた好きという感情には、美しさを感じ、苦しくなった。

彼らにとっての世界は、実質的にはとてもとても狭かった。
だが、二人でいるときだけはその世界は、宇宙のように広く、美しかったのかもしれない。


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音楽を担当した坂本龍一さんのサウンドトラック

いやー、非常に難しい批評だった。(そもそも批評なのかはさておき)
今後の批評は、もっと軽くしたい…(前に言ってたような)

PS.この作品を作った3人のベテランには尊敬の念を抱くばかりです。

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