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ある嫉妬について。

 父と2人で、暮らしていた小学ニ年生の頃、よく駄菓子屋に通った。子供の夢の国。めんこや、麩菓子、よっちゃんイカ、のらくろのチューイングガム、チューブに入ったカラフルな飲料、思い出すと、一瞬であの記憶が瞬き出す。手に握りしめた100円玉が世界の全てだった日々。
記憶とは輝きと痛みを同時にファイリングするようにも思う。


 ある日、いつも通りにお菓子を選び、いつも通りに100円玉を、椅子に座り雑誌を読むおばさんに渡した。開いていたレジに小銭が落ちる音と手を見ていた。隣りに居た友達も続けて渡す。
(ぴったり合計100円)
帰ろうとしたら、おばさんが、
「あなた、お金は?」
意味が分からなくて戸惑っていたら、
「100円まだ貰ってないわよ?」
え?と、隣りの友達と顔を見合わせる。
「さっき渡しました…」と伝える。
おばさんは、首を横に振って、
「そういう嘘はダメよ、泥棒と同じ」と無表情で言った。
ああ、人は何かをしながら、無意識のうちにに起こした行動には責任を持てないものだ。記憶に残り難いのだ。この人の勘違いだけど、この場は無理。子供ながらに悟って、ポーチからもう一枚の100円を取り、おばさんの手に渡した。本当は渡したくなかった。
お店を出てすぐに友達が、「私も見てた。ビスコちゃん、ちゃんとお金渡したよね?あのおばさん、どうしたんだろう…すごい意地悪だね」
ああ、あの人は確かに意地悪だった。でも、いつも優しかったのに、あの故意な態度は何でわたしに向けられたんだろう?監視カメラでもあれば、チェックして異議を申し立て出来るのに…脳内再生でそんなシーンを想像して…ああ、あんなお店に監視カメラなんかあるわけないじゃないと諦めた。

 遊ぶはずの公園に着いて、持っていたお菓子を紙袋ごと、ゴミ箱に捨てた。
小学二年生には、ショックが多過ぎたのだと思う。
なぜか食べたら負けな気もした。

 それから、二度とそのおばさんのお店には行かなかったのだけど、その後暫くして、またある事実を知ることになる。

 そのおばさんは、隣りのクラスのある子の親戚だった。その隣りのクラスの子とは、一、二度、他の子を交えて遊んだくらいの知り合い。テストでは一位二位を競う?相手でもあった。その子は塾、わたしは家庭教師(ただ単に通学するくらいならば来てもらう方が親が楽というだけ)そして、そのおばさんはバツイチで、自分の妹の子だった、その子を自分の子のように可愛がっていた。わたしの父親もシングル。実際に縁談話を持ちかけられる事も多かった。唯一、コブ付きである事にさえ目を瞑れば、社会的にも将来的にも外見も悪くない部類に属した人だったからだ。
駄菓子屋のおばさんも、父に関心があったらしい。わたしは知らないが、おばさんは、わたしが父の娘だと知っていた。
だから、いつも優しかった。
ある日、ある地元の後援会の人から、「会ってみないか?」と父に縁談話が持ちかけられたが、父は写真を一瞥もせずに断った。(後から判る)

 そんな大人の事情は、子供には全く関係ない世界。

 駄菓子屋のおばさんは、2つの嫉妬を、わたしに仕向けた。塾通いの妹の子より、家庭教師で苦労ない子が気に入らない。あら、この子?あの男性の連れ子だったの?再婚するには悪くないわ。とりあえず優しくしておこう。何よ、写真を突き返すなんて失礼な男…あ、娘に仕返ししてやろうかな…

 人間は知能が高く嫉妬をする生き物である。
理不尽なことは、世の中に確実に存在する。

 そのおかげで、わたしは「嫉妬」を他者に向けるような大人にならないように学べたのだから良かったのだと思っている。別に「嫉妬」自体は悪いものではなく、生き物の自然な感情なのだろうと思えるが、
それを感情過多で外に出すか?
それを内に留めて奮起するか?
非常にシンプルで、忍耐力を掘り下げられるか、られないか、くらいの事。我慢する事を学ぶのが学校に通う理由のひとつ。真剣に生きていたら、他者を羨ましいと錯覚して、時間を無駄にしている場合じゃない。

 心理的な泥棒も存在する。ただ思うには、未熟な子供には、それに抗う術はなかったという事。

 今は違う。


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