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未来の私との約束【スタッフ:響あづ妙】

「未来の私と約束したいこと」と聞いて、すぐには何も思いつかなかったのですが、今、頭の中でモヤモヤしていることを、どうにか言語化できないか、そしてそれが「未来の私の約束と繋がるのではないか」と仮説を立てて、今日はゆっくりと言葉を紡いでいきたいと思います。

ずっとモヤモヤしていた、私が私を認められない理由

私はよく「自分が嫌い」「自分を認めることができない」と言葉にすることがあります。27歳になった今、10代の頃と比べると、多少は和らいだような気もしますが、根底にあるモヤモヤした気持ちは昔から変わることはなく、きっとこの感覚はどれだけ素敵な人に「魅力的だ」と褒められても変わることはきっとありません。

意固地のように思えるかもしれませんが、最近ふとした時に気付いたのです。私自身が、自分を認められないことをそこまで嫌っていないことに。

もちろん、人から褒められると「嬉しい」と感じますし、「魅力的な自分」と出会えたことに喜びも感じます。それでも、自分を好きになったり、認めてあげようともしない自分自身に「なんでなんだろうな」という気持ちを持ち続けることも多く、よくわからないモヤモヤとした気持ちは考えすぎると暗雲となり、心に影を落としてしまうので、あまり考えないようにしていました。

「もうどうでもいい」。口から出てきた言葉は案外ポジティブで

あれはいつの話だったでしょうか。あるとき、いつものように記事を執筆しながらブツブツと感じたことや、打っている文字を言葉にしていたとき、なぜか自分の口から「もう、どうでもいいな」という言葉が出てきました。

「どうでもいい」という言葉を発したとき、心に浮かんできたのはピタッとくる感覚で、その感覚をネガティブに受け止めることはなく、「ああ、そうか。私は自分のことをもうどうでもいいと思っているんだ」と気づいたのです。

当時の感情を言葉にしている今、ずっと隠していた何かが溢れてきたみたいにボロボロと涙が止まらなくなり、せっかく書いた文章を消してしまおうかとも思いましたが、ここは書き続ける選択を進めようと思います。

容姿へのこだわりが強すぎた過去。今はそれすらもどうでもよくて

あるとき、Twitterにこんな投稿をしました。

人には必ず終わりがあり、その終わりに向かい、生きていくことに、ふとしたとき、疑問を覚えることがあります。生まれたいと願ったわけでもないのにこの世に生まれ、名前がつき、” 自分”としての人生がスタートする。

そして残酷なのは、人間には” 顔”という誰かと誰かをしっかりと判別できるものが生まれたときからついていて、さらにこの顔で人生が決まってしまうことがあるということ。

「なりたい」と願ったわけではないのに、生まれたときからある程度の人生を共に生きる”自分”の顔が確定していて、場合によってはこの顔とともに最期のときを迎えることになる。

鏡に映る自分の顔を見て「これが私か…」とため息をつくとき、「これが私」というよりは「この顔が私か」という感覚で、何度見ても受け入れられない物体を目にしているような気持ちはきっと今後も変わることがないと思います。

昔の私は自分の容姿へのこだわりと、容姿に対して何か言葉をかけられることへの恐怖から、極端な過食嘔吐を繰り返すことも多く、あるときには体重が30kg代に突入して大喜びしていた時期もありました。

しかし、22歳のときに病気になってから、代謝が下がり、飲む薬も増え、体重が増加し、今の私は、昔の私なら外に出ることを諦めるような見た目になっています。

でも、それすらも今は「どうでもいい」と思っているのです。
なんだか、本当にどうでもよくて(笑)

ここまで書いてみると、読んでくださっているみなさんにとって、ここまで私が紡いできた「どうでもいい」という感情はネガティブに感じるかもしれませんが、この「どうでもいい」が生まれてくれたおかげで、私は今、好きなことだけを選択する人生に舵が切れるようになりました。

私だからできることに執着していた過去も今では愛おしいものに

今回エッセイを書いていて思ったのですが、私はずっと「この見た目で、この名前をつけられた"私"の人生を全うしなきゃいけない」と思うことに気を張りすぎていたのかもしれません。

唐突ですが、私は劇団四季を観に行くことが好きで、とくにリトルマーメイドの公演で毎回心が刺激される瞬間があります。それは、セバスチャンが歌の練習をサボるアリエルに向かい「才能をもって生まれたものはその才能を全うすることが使命(意訳)」と伝える部分です。

この言葉を聞くたび心が揺れ動くのは、私自身が” 私だからできること”に執着をしているからなのかもしれません。

この顔で、この名前で、そして自分の持ってる” 何か”を活かそうとしながらこれまでの人生を歩んできた私にとってその言葉は魔法であり呪いのようなもので、観劇後「何かを始めたい」といった衝動にいつも動かされてしまうのは、何物でもない自分を変えたいと思う気持ちがあったからでしょう。

自分のことがどうでもよくなるということは、周りからの評価もあまり気にならなくなるということです。もちろん、人間なので瞬発的に「良く見せたい」という思考が動くこともありますが、それも踏まえて最近は” 愛おしい”とすら思えるようになってきました。

どうでもよくなった自分で楽しく人生を終わらせる。私が未来の自分と約束したいこと

ここまでダラダラと書いてきて、正直何を書きたかったのかも忘れてしまいましたが、私は「どうでもよくなった自分で楽しく人生を終わらせる」という約束を未来の自分とします。

昔は「周りから自分はきっとこう見えているんだ」と断定することも多く、たとえば、結婚や子育てをすることを考えることがあっても、「っぽくないね」と言われるのが嫌で、それを言葉にすることが嫌いでしたが、最近はそれも「どうでもいい」と思えています。

誰かが思い描く私に縛られて生きていた余波はそう簡単には消えませんが、最近は「●●っぽくないね」と言われても、それでいいかなと思えるようになりました。

自分の人生を全うしようと精一杯だった過去の自分はよく考えると、可愛い存在ですが、そんな過去の自分すらもどうでもよくなって、いい意味で「あれだけ頑張ってきたんだから」という縛りもなくなった今、「なんだか適当にハッピーに人生を終わらせられたらいいな」と思えるようになったんです。

そう思えるようになってから、想像以上にはかどる仕事と、溢れんばかりに出てくる「やりたいこと」に驚きを隠せません。

そして、今エッセイを紡ぎならが「いつも自分のことを邪魔していたのは自分だったのか」と気づき、”今の自分が思う「なりたい自分」ならそれなりに近づくことができるかもと感じました。

全くを持って受け入れることのできなかった見た目の問題もそうですし、心の問題だってそう、パートナーの問題も、終活も、お金のことも、老後に入りたい施設のことも。

約1時間、書いては消し、書いては消し、「これは違う」「あれは違う」と自問自答を繰り返しながら紡いできた今回のnoteで見つけた私の未来との約束は、「どうでもよくなった自分で楽しく人生を終わらせる」でした。

そして、この約束がなんだか今の自分らしくていいなとも感じています。

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