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生成AIの時代には、考えるプロセスを大切にしたい。

日テレの『教育と生成AI 子どもの上手な向き合い方は』というニュースが興味深かった。

小学5年生の女の子が取材に応じていて、いま学校では「紙の(宿題)はほとんどでない」そうだ。授業では生成AIに文章を書かせる方法を学んでいる。ところが先生から「家では生成AIを使わないように」と言われているらしい。

昨年、読書感想文コンクールで生成AIを使ったケースが報告されたという。報道のなかで先生は「生成AIに任せるべきところと自分でやるべきところを見極めることが大事」とお話されていた。当然のことながらAIはもちろん、代筆も問題だろう。

ところで、ビジネスの現場では、結果が求められる。

結果は、たとえば売上。営業であれば顧客から獲得したお金の数字になる。競合企業より優位になるための市場シェアもある。そのほかに時間短縮やコスト削減の定量的な成果も結果のひとつ。いかに短時間で難しい課題を処理して、さらに安く仕上げられるかということだ。

スポーツも同じかもしれない。

いまパリでオリンピックが行われているが、どれだけ金メダルを獲得できるか。結果はランキングとしてリアルタイムで更新されている。

もちろん、ビジネスにしてもスポーツにしても結果を出すまでには、さまざまなドラマがある。汗や涙を流したり、仲間との笑いや葛藤があったり。新記録を達成し、競合に勝って飛び上がったときの嬉しさは尊い。

しかし「頑張っても結果を出さなければ意味がない」というシビアな考え方も間違いではない。

かつて仕事では、コンペのために企画書を徹夜で書いた。オフィスに残り、コーヒーをがぶ飲みしながら、かたかたとキーボードを打ち続けて朝が来た。まったく書けなくなって頭を抱えたこともあった。

ところが、どんなに立派な企画書を書いたとしても、プレゼンで落ちてしまえば膨大な紙屑に過ぎない。提示した見積りを獲得できなかったなら、一夜にして企画書の価値はゼロに変わる。ゴミ箱行きだ。

「いや、その経験が今後のためになるんだよ。頑張ったよ、よくやった」という前向きな慰めもある。しかし、甘いと思う。

就職活動では、採用されなかった履歴書やエントリーシートはゴミだ。お祈りされても結果は変わらない。教育に関していえば受験がそうだ。偏差値の高い学校に合格して結果を出さなければ、どれだけ勉強しても報われない。描いていた未来は、そこで終わる。

こうした「結果至上主義」があるからこそ、結果が出せなかったから終わりだ、というようにすべてかゼロかという極端な考え方に陥る。なんとかしなければという焦りから、ひとつ道を間違えると、結果を出すためならあらゆる手段を使ってオッケーという考え方が生まれる。

結果を出すために効率的なツールを使ったり、プロフェッショナルな外部パートナーに依頼したりするのであればいい。スポーツの場合は優秀な外国の選手をスカウトすることもある。

しかし、結果を求めるあまり倫理観を見失うと、ビジネスでは仕事獲得のために収賄が行われ、スポーツではドーピングが問題になる。受験ではカンニング、就職では履歴書が捏造される。これらはルールを無視している。

生産性向上とは、インプットに対してアウトプットを最大化することだ。ところが結果の最大化だけを求めると問題が生じる。おそらく倫理観が整備されないまま、めざましく利用が拡大している生成AIもそうだろう。

こんな結果至上主義の時代だからこそ、プロセスを大切にしたい。

「結果は出せなかったけれど、頑張ったからいいじゃない」という気休めや言い訳のためではない。結果を出すためのプロセス重視であり、一方でプロセス自体に価値を見出すことが重要だ。

生成AIに目を向けると、人工知能のみなさんは演算処理によって、いかに早く、たくさんの結果を出すかということに特化している。一方で生成プロセスにおいて、体験もなければ感情もない。

けれども人間が処理するプロセスには、感情と体験がともなう。どんなにしんどい苦行も経験であり、楽しさを見出すことさえ可能だ。面倒くさいから意義がある。時間がかかったから、完成したときに嬉しい。

子どもの頃にはプラモデルに夢中になった。気が短い自分は、色塗りに失敗して完成と同時に破壊したこともあったが、それはそれで貴重な体験だ。あるいは、部活動でテニスの素振りに集中したこともあった。ぜんぜんうまくならずに試合には負けてばかりだったけれど、朝練のグランドでラケットを振ったとき、そのときの呼吸と空気の肌触りを覚えている。

生成AIは失敗しても何も感じない。身体を持たないからだ。処理結果から学習して、失敗のプロセスを排除し、より確かな結果を出すように静かにプログラムやアルゴリズムなどを修正するだけだ。人間は失敗すれば身を切るような屈辱感、かなしみがある。その反動から予測不可能な行動を起こすこともある。

さらにいえば、最重要のプロセスとは「考えること」だ。

生成AIの「演算処理」と人間の「考えること」は違う。アルゴリズムのような論理的な流れは同じかもしれないが、人間の思考には、個々の感情や育ってきた背景のコンテクストが加わる。

といっても、いずれAGI(Artificial General Intelligence:汎用人工知能)が進化して、人工知能がロボットのような身体を持つようになれば、人間と同じように体験し、感情を持つようになるかもしれない。

考えるプロセスは、面倒くさいし時間がかかる。しかし、その面倒くさいし時間がかかることを、他人や生成AIに丸投げしてよいのだろうか?

考えることは「人間が生きていくうえで、いちばんおいしい部分」だ。それぞれの人生の選択や課題に対して、考えたことは貴重な宝物になる。個別な体験であればあるほど、何ものにも代えがたい。そんな人生のうまみを手放すのはもったいない。

冒頭の日テレの報道で「生成AIに任せるべきところと自分でやるべきところ」という先生の言葉でいえば、自分でやるべきことは「考えること」ではないかと思う。

文章を書くために思考を鍛えようというけれど、実は逆ではないか。思考を鍛えるために文章を書く。文章を書くことは、思考を鍛えるための最適なツールのひとつだ。プログラミングやスポーツ、読書、イラストを描くこと、音楽制作も思考を鍛える。そして思考のプロセスには、これまでの生き方や自分の価値観が反映される。

生成AIに関していえば、プロンプトを考えるプロセスが重要だろう。

もちろん誰かの成功したテンプレートを使えば手っ取り早いが、自分の求めているアウトプットを得るために、どのような指令を出せばいいのか考えること。そのとき学んだプロンプトを考えるノウハウは、人工知能はもちろん、誰かほかの人間に指示を出すときにも伝わる言葉として役立つはずだ。

思考のプロセスには価値がある。そして、優れた思考のプロセスが最高の結果を出すと考えている。

2024.08.03 Bw



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