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連作短編「おとなりさん season2 海の見える食堂から」#5

第五話「猫になりたい」

〈今回の語り手〉仁茂あかり、三十歳。「花鳥風月」従業員(新人)。

 吾輩は猫である。
 ので、どうしてもヒト科のような群れの生活には馴染むことなく、さりとて、生きている以上、やはり糧は必要である。かすかに残る狩猟本能を総動員しようとも、しかし、吾輩も既に老境、ネズミを追えば翌朝以降の筋肉痛と疲労感、それに伴う虚脱感にて灯火たる命の火種が尽き果てそうにて、昨今たるや、人様から配給される食糧品を待つ始末。
 嗚呼。小生、もはや捕食者に非ず。
「あかりさーん」
 小生が長く離れている間に、このあたりもずいぶん人が減ってはしまったが、それでも、確かに人は生きているようで。生きる者がいれば、そこには食べ物が、飲み物が、そして、このあたりは漁火絶えぬ漁港。海の男たちは宴を好む勇ましい生き物。宴があればそこには残り物も多く、飼ってなんぞいただけなくとも、今宵、生き延びられるくらいの、わずかな体の火種があれば。
 その為、付近を徘徊していたらば、この女人が……。
「あかりさん?」
 背中から届いたその声にびくりとして、私は思わず、「んにゃっ」と情けない悲鳴をあげてしまった。
 まさか、聞かれていたのだろうか。一体、なにをぶつぶつと、わけのわからない独り言を言っているのだろうって思われてしまう。
 振り返ると、額に鉢巻、作務衣に身を包んだ勇ましい看板娘がそこにいた。白い顔。赤い頬。小さな手に握りしめたふきん。まだ新しい膝小僧。
「どうかしたんですか?」
 看板娘は不思議そうな顔を浮かべていた。
「ひょっとして、聞いてた?」なんて聞けず、「ううん。たまきちゃんもヒマなの?」と、あろうことか、雇い主の娘に失礼極まりない、とんでもない質問を投げかける始末。
 たまきちゃん、気にしていなかったけれど。
 しかし、私の足元には、残り物のごはんにお汁をかけた、かの有名な猫まんまを夢中で頬張る猫さんがいた。その理由はあまり語られず、しかし、とにかく不吉とされる真っ黒。すでに老猫さんらしく、毛並みは乱れてもつれ、黒目も白く濁った輪ができていた。空腹なのか、浮きあがったあばら。途中で切れてしまった短い尻尾。
「ごめん。だめだよね」
 飲食店にペットや動物はNG。わかってはいたんだけど。昨日、一昨日の夕の出勤時、空腹そうに身を捩るこの猫を見かけていた。お店のアルバイトを終えた帰宅時、こっそりと残り物をバッグに忍ばせていたけれど、夜はどこかで眠っているのか、黒猫は姿を見せてくれなかった。
「おー、ぬこさま」
 おいでー。たまきちゃんは笑顔で手招き。
「あかりさんのお友達?」
 NGになっていないのか、そのことを忘れてしまっていたのか、黒猫を抱き上げようとしたたまきちゃんを、だめだめ、きっとノミいるから、と、制止しておく。私たちはこれから、食事とお酒を提供する時間。
「掃除、ばっちりよ」
 立てかけたほうきとちりとり。
「ご苦労様です。そうそう。あかりさん。ケータイ、鳴ってましたよ」
 そう言って、たまきちゃんは、ポケットからスマートフォンを差し出してくれた。立ち上げると、もはや見慣れた、花束を写した壁紙。
「どこに置いてたっけ?」
「トイレです」
 そうだった、ありがとう。スマートフォンを受け取って、パンツのお尻のポケットに突っ込んだ。考えごとをしていると、最近はすっかり鳴らなくなったスマートフォンの存在を忘れてしまうときがある。
「もうすぐ開店の時間ですよ」
 たまきちゃんはにっこり笑って、私の手を取った。看板娘に引っ張られて、店内に戻る。すでにのれんがかけられていて、提灯の点灯を待つのみだった。ちらりと振り返ると、お皿をきれいに食べ尽くした黒猫は毛づくろいをしていた。店内に戻ると、そこは煮炊きする美味しいにおいに満たされていた。閉店後のまかないタイムが待ちきれない。
「本日は、五時半に予約の……」
 たまきちゃんの呼びかけに応じて、「予約」の札をカウンターに二席と、テーブル一つ。小さくて古い店だが、腕利き店主の美味しい料理と、かわいい看板娘がいるせいか、なかなか人気があるようだった。

 ついこの間、生まれ故郷に帰って来た私は、まっすぐ生家には帰れなかった。
 二度か三度、玄関前を野良猫のように周回したが、呼び鈴を押すに至らず、やはり、二度か三度のため息と共に、近くに食堂を見つけたのだ。
 小さなころ、父に連れられて入ったことのある、古くて、テーブルやイスが油でべたっとした、おじいさんとおばあさんが営んでいる店だった。おじいさんとおばあさんはにこにこと優しかったけれど、テーブルやイスのべたべたを苦手に思ったことを憶えていた。
 何を食べたのか、それが美味しかったのかどうか、そのことはあまり憶えていない。
 大人になって、今度は一人で入ったこのお店は、知らない間に経営者が変わったらしく、店内も装いを新たに、居酒屋になっていた。古い調度品もいくつかはそのまま使われているらしく、ただ古かっただけのお店が、昭和レトロを漂わせる空間にリフォームされ、なかなか渋い銀髪のご主人と、その娘だという、かわいい女子高生が二人で店を切り盛りしていた。
 初めて見たとき、やばいくらい年の差のあるご夫婦なのかと勘違いしたのはここだけの話。
 物腰柔らかく、静かで、でも、きっと、あんまり商売には向いていないだろうご主人、豊さん。
 しっかり者で、すっかり看板娘が板についてきた、でも、まだ高校生の女の子、たまきちゃん。豊さんとたまきちゃん。
 十二年ぶりの里は、その景観の多くが姿を変えずに古びて、その結果として色褪せても見えたけれど、この店、花鳥風月だけは県外からの移住者さんが営んでいることもあって、真新しい空気感に包まれていた。田舎が古びてしまうのは、人材の流動が起きないからだと聞いたことがある。人が変われば、その器も変わってゆく。
「あかりさん」
 厨房から私を呼ぶ声。この店の店主で腕利きの板前、豊さんの声。人を使い慣れていないせいか、たまきちゃんを呼ぶときとは声が変わってしまう。そして、丁寧な言葉になってもしまうので、私も尚更、緊張してしまう。
「はい。なんでしょうか」
 思わず伸びる背筋。それから敬礼してしまいそうになる。店主の背後、厨房から立ち昇る湯気。熱気。たくさんのご馳走のにおい。お腹が鳴った。
「今夜のメニューの、その、あれを」
 店主は、いろいろなあれこれすべてを「あれ」と略すのが癖らしい。
「外に出す、あれですね?」
「はい。黒板に記入しておいてください」
 私たちは顔を見合わせる。店主が照れて笑う。思わず私は吹き出してしまう。お互いに不慣れだけれど、店主もたまきちゃんも、あたたかい。このお店にアルバイトに来て、本当に良かった。
 カウンター越しに店主が差し出した、地元の銀行のロゴの入った、手書きのメモには、今夜のおすすめが記されていた。
 今夜のおすすめは、ビールにぴったり、お子様だって大よろこび、八種のスパイス香るタンドリー手羽元の唐揚げ。
 それから、白身魚のつくねで巻いたスコッチエッグ。関西で長く暮らしたという父娘らしく、お祭り屋台の定番、とんぺい焼きは、焦げるソースに胸が鳴る一品。
 海の恵み、山のよろこび。地球からのいただきものに、精一杯の慈しみと創意工夫を込めて。
 風が届けてくれた、小学校のチャイムは午後五時を告げていた。
 それから、今夜のお通し。
 ときに敬遠されてしまうお通しだって、その店の板さんの実力をはかる最初の一品。ぬかりない、花鳥風月の今夜のお通しは、この地域のおつまみの定番品、ちくきゅう(極太ちくわにきゅうりを一本、差し込んだもの)にアイデアをいただいた、店主オリジナルのちくわ巻き。軽く焦げ目がつくまで焼いたちくわに、醤油漬けにしたすじこを巻いたものをスライスして。もう一本は、砕いてごま油を絡めたきゅうりに一味をパラパラして、ちくわにぎゅっと詰めて。
「この一手間がアイラブユー」なんて、懐かしいコマーシャル曲を鼻歌に歌う店主。たまきちゃんがスイッチを入れると、いよいよ赤く灯る提灯。漁港に育った私は、この灯火を見るたびに漁火を思い出す。引き戸を開くと、開店を待っていてくれた常連さんたち。コンビニ近くの街灯に集まる夏の虫……いや、なんてことを。改めます。冬の焚き火に誘われるように集う人々。
 午後五時半。引き戸が開く。
「いらっしゃいませ」
 精一杯の笑顔でお出迎えする、私たち花鳥風月一同。それから今日も始まる、宴の時間。そんな初夏の夕刻。

「生ビールとニラ玉とあんかけつくね」
「しめ鯖と瓶ビール」
「豆腐の肉吸いと豚アスパラ巻き、それから生中二つ」
 飛び交う注文。ぶつかるジョッキ。
 看板娘は「はいよー」と「まいどー」で応戦しつつ(時折の「かしこまりー」は、「かしこまりました」を、ご常連向けにアレンジしているのだと聞いていたけれど、たまきちゃんは一見さんにだって使っていた)、テーブルやお客の間をひらひらと舞うようにかわす。
 タンドリー手羽元を頬張っている子供の、「美味しい」に、私たちはにっこりしてよろこぶ。厨房から飛んでくる、「いっちょあがり」に、心も躍る。働く私のお腹も鳴る。
 今日も騒音で祝われる、昨日によく似た幸せな一日の、その終わりの宴。
 誰も彼もが笑って、食べて、そして、飲む。宴の時間はいつだって、激しくて、血気盛んなものなのだ。そこにいる人々は獰猛な空腹という怪物をお腹に飼っているのだ。板前の店主は、籠城しているかのように厨房で熱気と煙に巻きつかれて奮闘していた。細い鼻梁に浮かぶ汗のアスリート感がすてき。
 時間の限定された、ささやかな狂騒。誰もが笑っている、ように見える。ご馳走を赤い頬に詰め込むお客さん。そのお隣さん。みんな笑っていた。食べること。笑うこと。美味しいお酒。杯を重ねるよろこび。
 あくせくと、ひらひらと舞うたまきちゃんだって、飲んでもいないのに、真っ赤な頬をゆるめて笑う。厨房の忙しそうな背中だって、幸せそうに笑う人々の隣で喜んでいるのだ。
 忙しく働く。額に汗も浮かべているだろう。それは、当たり前のことのようで、当たり前ではなかった、大切なことだった。
 大切なことを思い出すと、大切にし損ねた日々のこと。あの日、隣にいた、お隣さんのこと。
 忘れようとして、そのたびに、忘れてはいけないと自分に言い聞かせる、かつてのお隣さんのこと。
 かつての夫の横顔。
 私たちはとても仲の良い、愛し合った夫婦だったけれど、お隣で過ごした時間はそう長くならなかった。なれなかった。出会った都会のことも好きにはなれなくなってしまって、生まれた土地に帰って来て、しまった。
 思い出す。スマートフォンのなかの花束の日のこと。
「あかりさん」
「ん?」
 思い出したくない、と、覚えていたい。少しずつ、どちらもがある。だけど、なるべく思い出さないように。真っ直ぐに生きている、いまは、お隣さんたちの横顔を見ていたい。
「いつも、おしゃれで羨ましい」
 たまきちゃんの視線は私の耳に向けられていた。きっと、いつもつけている、お守り代わりのパールのことだろう。これは、海からの預かり物。
「たまきちゃんも、いつか似合う日がくるよ」
 その日まで、お隣にいる友達でいよう。ひとまわり下の新しいお隣さんに、私はこっそり、そんなことを思うのだ。窓の外には、黒猫が私の帰りを待ち侘びてもいてくれた。
 小さな町の小さな食堂。そこに集う人々。それから、ぬこさん。
 新しいお隣さんたちとのよろこびの日々は続くのでした。

つづく。
artwork and words by billy.
#創作大賞2023
#ほろ酔い文学

さて、今回は、第三話で帰郷し、花鳥風月のアルバイトに加わった、仁茂あかりさんの一人称でお送りしました。
次回は、空腹を抱えた小学生の男女がお店にやってきます。
二人の訪れは、いずれ、たまきの未来設計に……?
またのお越しをお待ちしております。
それでは、また。ビリーでした。

©️ビリー

P.S. と、いうことで、第五話のあとがきのあとがき的に。三百字以内のあらすじが必要な第一話はあらすじと本編で約4000文字、以降は「連作短編」ですので、一編を5000字前後として、書いている本人は、そろそろ、第八話を書き終わるところです。主人公が高校生の女の子ですので、青春ものらしいラストを考えています。
 引き続き、今後もお付き合いくださいませ。

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