連作短編「おとなりさん season2 海の見える食堂から」#6
第六話「地図にない場所」
どうしてお腹が空くんだろう。
膝を抱く。ダンゴムシのように、なるべく小さく体をたたんで、ただ、目を閉じておく。何も見えず、何も聞こえないように。なるべくエネルギーを使わないように、なるべく、いまより消耗してしまわないように。そして、目だけで壁の時計をちらちらと見つめて、時間が過ぎ去ってくれるのを待っていた。
お母さん、今日は何時に帰ってくるんだろう。
ぼくはまだ小さかった。
ぎゅるる、と、空腹を知らせる悲しいお知らせが何度か鳴って、ぼくは鼻だけでため息をつく。壁の時計は、もうすぐ午後五時。小学校のチャイムが鳴って、この南風町は夕方になる。
窓の向こうは少しずつ夕方を迎えていた。ぼくの住むアパートの駐車場に、白や赤の軽四が帰宅していた。助手席から降りてきた子はすぐにお母さんが降りてくる運転席へ走って、「お母さん、今日のごはんはー?」なんて、はしゃぐ声。スーパーの袋を持ち上げてお母さんが、その子の手を取る。
お母さん。
今日は昨日より早く帰ってきてくれるかな。昨日と同じくらいだとしたら、午後九時半。あと、四時間半も残っている。それを思うと、ぼくの空腹はさらに大きく広がるのだ。
そろそろカーテン閉めなきゃ。残存エネルギー少、エネルギーゲージが青く点滅しています、なんて、最近観たばかりのアニメを真似る。人間を襲って、地球を奪おうとする、大きな猿と人間たちの死闘のやつ。あんなアクションしたら、余計にお腹減っちゃう。
寝室。その横の僕の部屋。カラスが山へと帰る夕方を締め出した。それから、リビングのカーテンを閉めようとしたとき、鳴ってしまったインターホン。そこに映っていたのは、お隣さんだった。
「こはくちゃん?」
隣の部屋の、こはくちゃん。姓は宮本。ぼくより一つ上で、六年生。染めているみたいに、薄い茶色の髪が目立つ。とっても可愛い子だから、いつだってよく目立つ。どうしよう。ほんとは、一呼吸置いて、自分を整えてから迎えたいのに。
でも、そんなふうに待たせることもやっぱりできない。ぼくは慌てて、玄関を開けたのだ。
「ねえ、お腹減ってない?」
ドアが開くなり、こはくちゃんはそう言った。腕を組んで、どことなく偉そうにだってしていた。
「減ってるよね?」
有無を言わせないような、高圧的な口調で、こはくちゃんはぼくに同意を求めてくれた。きっと、彼女はとてもお腹が減っているんだろう。黒に近い濃いグレーのTシャツ。チャンピオンのスウェットショーツ。こはくちゃんは、背も高いし、いつだって、大人みたいだ。古びたナイキのサンダルの、裸足の爪先がうちのドアを押さえていた。
「お腹?」
減ってる。昨日より激しく強く。
「ごはん行こうよ」
こはくちゃんは僕の手首をつかんだ。僕は慌てて靴を穿く。それから、ぼくたちはやわで薄い階段を駆け降りた。打楽器みたいに鳴る階段。そして、思わず見上げた、真上には、きっと、この夏、最初の青い空がまだ残ってくれていた。
「どこ行くの?」
ぼくは、そう訊く。
「いま考えてる」
彼女がぼくを引っ張る。
生まれて初めて、お隣さんの手首をつかんでしまった。こんなに細かったんだ。ぎゅっと握ったら、彼女の手首はするりと溶けて消えてしまいそうだ。
ぼくは、この日、女の子と、男の、その体の違いに気づいた気がする。
「どこ行くんだよ」
「いいから」
県道を走り始めたぼくたちは、すぐ隣に海がさざめいていたことを改めて知る。ぼくたちは、まだまだ駆けることができる。走り続けたその向こうには、どんな景色が広がるのだろう。
そんな景色なんてなくても良かった。
彼女と、ずっと走っていられたら。たったそれだけで、ぼくのいる世界は美しいみたいだ。
視界の先に海。繰り返す波。黄金に染まり始めた、夕刻の太平洋。
それは、きっと、永遠に終わらないもの。
ぼくは彼女の手を握る。彼女は、ちらりと振り返って、何も言わずに握り返してくれた。この世界には、ぼくとこはくちゃんの二人しかいないような、そんな気がした。このドキドキは、きっと、一生忘れない。
「お腹減ったね」
空腹なんて、そんなの起きたことも忘れて、ずっと、どこか遠くへ。息を切らせて弾む胸。
「うん。ごはん食べたい」
走っていられるかもしれない。そんな気がした。
やがて、海岸付近。ぽつん、ぽつんと並ぶ商店。瓦屋根の並ぶ、古びた住宅街。さすがにそろそろ歩き始めていた。ほどけてしまった手を、指を、どうやったら、もう一度、繋ぎあえるか考えた。
どこかのお家の食事のにおい。肉じゃがのほんのりの甘みに鼻先をくすぐられ、焼き魚のつんとする煙と焦げには猫のように喉を鳴らして、どこからだって、ごはんの炊ける甘いにおいがした。カレーライスが届いてきてしまったら、ふんわりと盛り上がる湯気を思い出して、そして、誰よりもお腹を空かせた。それは、特別じゃない、毎日の食事だった。
そんなふうにたどり着いたのは、開店前の居酒屋だった。
「ここは?」
ぼくは訊く。
「わかんない。たぶん、居酒屋」
「子供が入ってもいいの?」
「お酒飲まないから。それに、いつも、いい匂いがするの」
まだ開店前らしかった。ずいぶん古くなって、色褪せた、まだ灯っていない提灯に印字された店名を拾う。
「はなとり……なんだこれ?」
「かちょうふうげつ」
「かちょう?」
ぼくは上座で腕を組んでいる、スーツ姿のお母さんを思い浮かべた。なぜかお母さんはひげを生やしていた。そして、そんなことはきっと起きないだろうと、突然、あらわれたお母さんを打ち消しておく。
「花鳥風月。この世界にある美しい自然とか、それを大切にしようとする気持ち。だったと思う」
それから、わずかに開いていた引き戸の隙間に顔を寄せて、こはくちゃんはなかの様子を伺っていた。開店前の居酒屋。食堂。コンビニやマクドナルドじゃない。それはきっと、初めて覗く大人の世界。ぼくも顔を近づけた。のれんを避けて、屈んだ背に乗せられた、彼女の細い指。
「ねえ、君たち」
店内の様子はよく見えなかった。けれど、出口を探して店内を周遊していた、ご馳走の匂いが、ぼくたちの鼻先をくすぐって、外に逃げてゆく。
「ひょっとして、お客様?」
背中に届いた声。振り返ると、作務衣姿のお姉さんがぼくたちを見つめていた。手にほうき。きっと、田舎には売っていない、変わった形のサンダル。
「私たちは……」
大人びて見えるこはくちゃんも、大人のお姉さんの前では、やっぱり、まだ子供だった。
「僕たち、お腹空いてて」
正直に告白してしまおうと、ぼくは、こはくちゃんより先に声にした。ぼくたちの冒険の、背伸びの、限界が見え始めていた。
「私たちはごはんを食べられるお店を探して来たの」
「お金なら、持ってるから」
ショートパンツのポケットから、くしゃくしゃになった千円札を引っ張り出して、こはくちゃんが宣言した。続いて、ぼくも、と、握りしめた五百円玉を提示した。合わせて千五百円。居酒屋さんって、これで食事ができるのだろうか。
とにかく中へ、と、ぼくたちは、店内に案内された。壁じゅうに、メニューとそのお代。キッチンの奥のお酒のボトル。営業に向けて、用意された、今夜のごちそう。それはまさに、大人の人たちの世界。
本当に、ぼくたちは、何も知らなかったのだ。
「君たち、このあたりの子?」
白髪のおじさんは困った様子だったけれど、でも、微笑んでくれてもいた。
「お金はしまっておいてね」
さっきのお姉さんも優しかった。
「ね、君たち」
最初に声をかけてくれたお姉さんより少し若くて、そのせいか、細くて胸も小さい。若いほうのお姉さんの、優しい声。
「おうちでごはん食べないの?」
お姉さんはしゃがみ込んで、ぼくたちよりも低い視線。不思議と、とても近くなった気がした。
「お父さんやお母さんは?」
「お母さん、帰るの遅いから」
いままでも、ぼくたちは、お母さんが置いてくれたお金を持って、コンビニとか、ハンバーガーとか、そんなふうに近くにあるものを食べてきた。
「一人じゃなくて。二人でもなくて」
こはくちゃんは俯いていた。ちょうど、日焼け始めた、サンダルから覗く指先あたりを見つめていた。
「だけど、でも」
鼻を啜る音。隣の彼女が泣いてるなんて、初めてのことだった。きっと、これからだって、この日が最初で最後になる気がしたんだ。
「自分で作ってみたかった。それなら、帰ってきたお母さんもよろこんでくれるかもしれないから」
そんな、ごはんを食べに行こうって思った。
お隣の子が、そんなことを考えていたなんて。女の子って、大人なんだな。女の子って、すごい。
ぼくはそんなことなんて考えたこともなかった。自分で、ごはんを作る。だけど、それなら、仕事で遅くなるお母さんを助けてあげられるかもしれない。
「コンビニとか、ハンバーガーじゃないごはんを、食べたかったの」
ぼくはおとなりさんの手をつかむ。いつか、神様が、ぼくたち二人を結び合わせてくれますように。彼女から強く握り返されて、きしむ小指。
それから、
「千五百円で食べられる、ごはんを食べさせてください」
そう言って、頭を下げた。ちらりと横を伺うと、こはくちゃんもぼくに続いて頭を下げていた。
「困りましたね」
年上のお姉さんの声。
「父ちゃん、どうしよう」
高校生のお姉さんも迷っていた。
「このあたり、あんまり、ごはん屋ないもんなあ」
そうだ。なあ、君たち。
カウンターテーブルの向こうから、白髪のおじさんがぼくたちを覗き込んでいた。
「これは君たちと僕たちの秘密だ。約束してくれるんなら、開店までの時間、思い切り、好きなものを食べてっていいぞ」
あと四十分ある。
人差し指を立てて、なんだか、不慣れな笑顔。その指は壁の時計を指していた。そして、板前さんは厨房のご馳走たちに立ち向かったのだ。
「どうだろう?」
ぼくたちは、首を縦に振るしかなかった。こんなに美味しい匂いに囲まれて、断ることなんて、できない。
「それでは、花鳥風月の開店の時間です」
看板娘のたまきさんが、お店の開店を宣言してくれた。
「いらっしゃいませ!」
ドリンクは烏龍茶でいい? 麦茶もあるよ? ジュースもあるけど……ほんとはビール飲ませてあげたいけど。うちは創作和食なの。お茶でいいかな。
あかりさんは笑顔のままで、厨房の奥へと姿を消した。
「こちら、どうぞ!」
たまきさんに案内されて、ぼくたちは、緊張しながら、どうにかカウンター席に腰を据えたのだ。時間外営業だから、と、テーブル用の小さな提灯、「花鳥風月」に灯りが点いた。
それから。
「今夜のおすすめ。窪川牛の手ごねハンバーグ。刻んだ大葉と大根おろしにぽん酢で、半分は和風。もう半分はデミグラスソースで洋食屋風。この土地の、僕たちのくらす地域に育まれた、肉と野菜のごはんだ。美味しいと思う」
肉の焼ける香ばしい匂い。立ち昇って、顔をおおう煙。鉄板に載せられた俵形のハンバーグが目の前にやってきた。添え物に、ほうれん草とにんじんのバターソテー。それから、根菜のお味噌汁。山盛りに盛られた、炊き立ての白いごはん。すっかり乾いた喉を潤す緑茶は、あかりさんがジョッキにたっぷり注いでくれていた。
「美味しい」
お隣さんが夢中で頬張る。やっぱり、こはくちゃんはよく知っている。切り崩してゆくと、ダムのごはんがまたたく間に渇水してしまった。
「早くおかわりしろー」
たまきさんが声をかけてくれた。そこにいる、ぼくたちは、誰も彼もが笑っていた。
美味しい時間は愛おしい。美味しいって幸せなんだ。ぼくたちは、夢中でそれを頬張った。
空腹は、生きている証拠。元気のしるし。明日もきっと、お腹が減るだろう。
いつか、お母さんを連れて、このお店にやってこよう。
「お会計。お二人一緒でいい?」
午後五時二十五分。お腹いっぱいになって、こはくちゃんと顔を見合わせた。しあわせだねって、きっと、こんなときに言うのだろう。
「お主ら。毒味であったと気づかぬか」
レジカウンターのあかりさんは、しめしめみたいに笑ってくれていた。
「また来な。明日も待ってるよ」
厨房からにっこりのご主人。
「父ちゃんがそう言ってるから、また、明日も待ってる」
たまきさんは胸にお盆を抱いていた。大人たちが笑っていて、つられて、こはくちゃんとぼくもどうにか笑えた。
「いつか、この花鳥風月に飲みにきてね。二人が大人になったら」
看板娘らしく、たまきさんは未来のことについて話してくれた。あかりさんは、そんなたまきさんを愛おしそうに見つめていた。たくさんのお隣さんができた気がして、追いつきたい。早く大人になりたい。そんなふうに考えた。
ぼくは思う。
いつか、大人になったら。このお店で、お隣さんと乾杯するんだ。
「明日もお待ちしています」
背中に届いた声に振り返ると、花鳥風月の提灯に光が灯っていた。ぼくはお隣さんの手を握った。
つづく。
artwork and words by billy.
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