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短編小説「国境線上の蟻」#6



 君は手持ち無沙汰にナイフを弄ぶ。開く。閉じる。硬質な、金属音が鳴る。情緒の入る隙間のない、冷たい音。初めて触れたのはいくつだっただろう。四つか五つか。閉じるときに歯に触れた人差し指と中指の肉が裂けて、血が溢れたことをよく憶えている。生きている、と、初めて思った。鮮血は生きているものの証だった。死んだものから流れる血は赤くはない。すぐに黒く淀む。淀んだ血は川の下流のように滞り、あぶくと吐瀉物を混じらせて、やがて小虫があたりをうろつくようになる。
 君とワン・イーゼンはそれぞれにグラスを持っていた。スコッチウイスキーには氷を三つずつ浮かべている。ワンは溶けたその水分が琥珀に溶けゆく様子を見つめていた。君は、変わらず、ナイフを開閉し続けている。かすかな風の流れを生むのか、その都度、燭台の炎が揺らめく。刃は怪しく反射光を閃かして、それはなぜか、オイルの切れたライターのような気がした。
「ナイフか。物騒だな」
 ワンはグラスに口をつけた。一口。二口。啜って、低いテーブルにそれを置く。広げられたナッツのいくつかを摘み上げて、音を立てて咀嚼した。美味いも不味いもない。単なる動作のひとつとして、繰り返し続けていた。
「そうかな」
 君は言う。ビールだろうがウイスキーだろうが、味なんて考えたこともない。今日を忘れるために飲む。明日のことから目を背けるために飲み込む。それだけだ。それ以外であったことはない。
「これがあればリンゴの皮を剥ける。フォークにもナイフにもなる。俺は運び屋で、何でも屋だ。積荷のロープもこれで切る」
 誰かの首を切ることだってある。そう思って、言わない。
 今日は違う。今日も、明日も、忘れるわけにはいかない。その瞬間に喉を切られるだろう。
 なぜ刃物を物騒に思う?
 そう問う代わりに君は男に視線を向けた。切っ先よりも鋭利な冷徹さで。いまや君に感情はない。
「戦争屋には武器にしか見えないんだろう?」
「戦争屋か。言っておくが、戦争は売り買いできない。私は単なる商売人で、言い換えるなら、シナリオライターだ。戦争をするかどうかは私に依る事柄ではない」
「でも、あんたは命と引き換えに富と権利を手にした、言い方を変えても事実は事実だろう」
「お前が思うほどには儲からないさ。それは前々世紀の話だ。大国が勝利するシナリオをひいてこそ大義なり、正義が発生する。局地紛争はデータ採取のサンプルに過ぎない」
 モルモット。そうだよな。お前にすれば、俺たちなんて、モルモットでしかなかった。知ってるさ、そんなこと。君はグラスに残った深さ三センチのスコッチをひと息に飲み込んだ。神経が立ち上がっているのだろう。アルコールが背中から抜けてゆく気がした。参ったな。こいつと一緒なら、何本開けても、酔ったりしないだろう。
 君はそのナイフが男の喉を裂くイメージを描く。いまの君にそれは容易いことだろう。
「で、この国もそのサンプルとやらに使おうと?」
「冗談だろう? ここは私の祖国でもある」
「以前はな。だからこそお前は渡航のために準備をしている。違うか?」
「私は売国奴ではない……いまのこの国にそこまでの価値があるとは思うかい?」
 君は初めてお前と形容する、契約関係の破棄が生じることを知っていてなお、その言葉を使う理由があった。
「私を殺したいのか」
 ワンは表情を変えなかった。
「ああ。殺したい、じゃない。殺すつもりで請けた依頼だ。いくら権力があろうと、お前を殺すくらいは簡単だ」
「……なるほどな。だが、私を殺したところで何が変わるわけでもない。君が命を落とすだけだ。分かるな?」
 それがどうした。
 君は思う。地の果てまで逃走する、そしてそこで孤独に息絶える。そう決めている。それは既に話したはずだ。
 いつだっただろう。君は過去を思う。遠く過ぎた夏のことのような気がした。
「お前は、俺が殺す。そう決まっている」
「決まっている、か……面白い。まさか運命とでも言うのか」
「血だ」
「……血?」
「血液だ。俺にもお前にも流れる血だ。流れる以上は絶やさなければならない血だ」
「そうか。血か」
「俺はお前の子供だ、数百はいるだろうが、そのなかの独りだ。そして、俺の故郷とたったひとりの母を殺したのがお前だ。憶えているだろう」
「憶えてはいない。だが、それは間違いなく私だろう」
 どこかでサイレンが鳴った。夜明けを告げるわけではない。この日たった一度だけ停泊するクルーザーの到着を知らせるサイレンだった。
 君は窓の外の景色を眺めていた。葉をすべて失って尖った枝がかすかに揺れていた。それは、なぜか、とても美しかった。


前回まではこちら。

つづく。
photograph and words by billy.


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