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連作短編「おとなりさん season2 海の見える食堂から」#4

第四話「恋文」

〈今回の語り手〉纐纈いおり、七十五歳。「花鳥風月」先代夫人。

「よいしょ」
 年寄りくさいとは思いながら、だけど、とうにお年寄り扱いされる年齢になっているんだし、現実的に孫のいるおばあちゃんなんだから。
 なんて、しっかりと自分自身を自覚しながら立ち上がる。
 よいしょ。
 そんなかけ声で、いまから動かしますよ、と、自分自身に、その体に伝えておくのです。これだけで、それなりに怪我の可能性を減るというのだから、人の身体というのは案外、単純で、簡単なものなのかもしれません。
 ありがたいことに、私は、足腰も背中も、肩肘だって、痛みはない。お隣で、肩が痛い、腰が痛い、そんなふうにあちらこちらの痛みをこぼしては、しかめ面を浮かべていた人のことを思い出す。その光景に思わず吹き出すのです。
 やれやれ、仕方ないわね。そんなふうに言って、たぶん、笑顔を浮かべていた。それしかできなかった。その都度、年のせいね、なんて、お互いを見比べては、笑うことができたのだ。
 写真でも見ないと、もはや、若かったころの顔を、手を、足を、その姿を思い出せない。
 そんな日々のことは、忘れようにも、忘れられない。笑っていたことを思い出すけど、笑ってはいられないことだってたくさんあったのだ。ほんとは、そんなことのほうが多かったのだ。
 我が家を見渡す。玄関から台所、居間、寝室が見渡せてしまう。猫の額、うさぎ小屋なんて、昔の人はうまく例えたもので、直近の二十年は夫婦二人だけだったにしても、かつてはこの小さな空間に一人娘も暮らしていたのだ。
 自分だけの部屋を欲しがった娘に不都合させたと、いまになれば後悔する。大学を機にこの家を離れた娘は、それっきり、ここには帰ってこなかった。
 狭いながらも、なんて、いまはもう誰も歌わないし、そんな強がりも流行らないでしょう。
 片づいてしまったいまでこそ、小さくとも、ここが家という空間であったことはうかがえる。けれど、くらしというのは、人と物がひしめき合うもの。人と人がすれ違えない通路で、近すぎた私たちは喧嘩も多かった。隣の部屋のあくびが聞こえてしまうくらい薄い壁。いびきがうるさくても逃げる場所がありませんでした。
 近すぎるのが良いのは、若いときだけ。大人になると、少しずつ、呼吸を整えやすい距離が必要になる。それができなくて、きっと、不必要な言い争いで、無駄に消耗もしたでしょう。
 仏壇はもうありません。
 遺影と戒名板、骨壷は、小さくまとめて、バッグのなかにしまっている。いまや荷物になってしまった、かつてのお隣さん。きっと、もう、肩も膝も腰も痛くはないし、思い通りに動かない体について、イライラすることもありません。
 喧嘩だって、もうできない。
 もともと、あまり話すことが好きではない人だったけれど、いまはもう、まったく何も話さない。当たり前ですね。
 かつてのお隣さんは、いまは亡き人。悲しいほど静かな白い骨は、軽くて、あたたかくもない。
 仏壇を閉じる。
 一部屋ずつ、雨戸を閉めて回る。
 居間の柱には、小六のときまで計測させてくれた、その当時の娘の背丈が刻まれていた。傷んで抜けそうになったままの、キッチンの床。片足で載せてみると、やはり、軋んで、悲鳴をあげた。
 そこかしこから立ち昇るほこりのにおい。どれほど掃除機をかけても、丹念に拭き掃除をしても、経年ぶん古びて、においは消えてくれなかった。蓄積した疲労のように、傷み、変色してゆく。
 人も、家も、この世界にあるすべてはそういう運命をたどるのでしょう。生きているのは人だけにあらず、動物たちだけにあらず、小さな庭の片隅に住み着いた雑草やその野花も、虫たちにも、そして、人が住んだ家にも、命があって、やがて、別離のときが訪れるのです。
 この世界にあるすべてのものに別離は訪れるのだと、人はやがて知るときが来るのでしょう。
 私は、今日、長らくお世話になった家と別れることになりました。
 お世話になりました、と、ややもすれば曲がり始めた腰をさらに折り曲げて頭を下げて、軋む引き戸をしっかりと閉じ、ようやく、五十年住んだ小さな平屋をあとにしたのです。
 その持ち主であった、かつてのお隣さんを詰めたバッグを片手に。
 行きましょうか。
 私はそう告げました。
 宿を探して滑空してゆくつばめたちに見送られながら、五月終わりの晴れ日の夕は、残る日差しこそ夏のよう。
 けれど、まだ乾燥した空気が心地良くて、少女のころのように足取り軽く高らかに……残念ながら、そうはいきませんが、それでも、とても心地よいものでした。
 生活の多くを置いてゆくというのは、どこか心苦しいようで、同時に、解放されて軽くも感じるものなのでしょう。家出する人たちの気持ちをよく理解できたような気さえして、不思議な高揚感と歩くと、見慣れた路地まで、新たな色彩を持って進むべきを照らしてくれているように思いました。
 角を曲がると書道教室。その先にお好み焼き屋。そろそろ開店なのでしょう、電光看板が出されています。
 それから、懐かしの、食堂、花鳥風月。見なかったふりをして通り過ぎるほうが良かったのかな、とも思いましたが、ここを歩くのもおそらく最後。せっかく、電車の時間より早めに出てきたのだし。そう思って、のれんをくぐることにしたのです。
「いらっしゃいませー」
 高い、澄んだ声。語尾を伸ばして発音されたのもご愛嬌。奥から届いた伸びやかな声は、若い女の子でした。
 アルバイトの方かしら。
 ずいぶん、このお店も新しくなったのね、なんて、自分がそんな声を出していた時代を思い起こそうとすると、しっかりとモノクロに変更された記憶が目覚めて、ふふと笑ってしまう。私が思い出したのは、当時の写真でした。
「いいかしら?」
 店内の様子を伺う。かつての花鳥風月と同じ間取りだったけれど、同じなのは間取りだけだった。
 そして、そこにはもう若くはないけれど、私よりは充分に若い店主と、お嬢さんなのだろうか、高校生くらいの女の子がにっこりしていました。内装もずいぶん変わった。お客さんたちもすっかり入れ替わったのでしょう。
「お一人さま、ご案内しまーす」
 丁寧に椅子を引かれて、年数ぶん、重くなってしまった体を座面に預けた。ようやく、自分がお客になっていたことを思い出したのです。
 そして、なにげなく様子を伺いました。
 懐かしい店内のようで、生まれ変わってしまった花鳥風月。
 去来するのは気淋しさ。酒席らしく、赤い頬をして、料理を頬張る人たち。
 乾杯、と、開幕を告げる声の高揚。隣は学生に見える若い男女が肩を寄せてスマートフォンを覗き込んでいた。鎮座する瓶ビール大。
 食べるよろこび、生きるよろこび。
 所狭しとお店のなかを駆けた、かつての私と、勇ましい作務衣姿の、笑顔の可愛い女の子が重なって見えてしまうのです。
 重なり合ってしまう記憶と現在。モノクロもカラフルも、そのなかのフォルムそのものは大きく変わらない。人が人であることは変わらないから。
「お久しぶりです」
 いくらか驚いたらしい、小さな目を丸くしたご主人が、カウンターの奥から私に向けて頭を下げてくれました。和帽までつかみ取ってしまったけれど、それはだめよ。すぐ前にお料理があるでしょう。なんて思っちゃう。
「ずいぶん繁盛してるのね」
 言ってしまってから、嫌味に聞こえなければいいんだけど、と、思い返す。
 もうずっと昔から大人なんだから、発言には注意しなきゃって思いながら、その実、意外と人は成長できないもの。
「おかげさまで。何にしましょう?」
 何にしようかな、なんて、ちらりとメニューに目をやるも、ほんとは最初から決まっていた。
「瓶ビールと、それから」
「アレにしましょうか」
 多すぎるメニューに迷った視線を察して、提示されたのは、あれ。たった一つの指示代名詞が意味するもの。
 沢渡さんはあの日のように、静かな笑みを浮かべてくれていました。
 一口サイズにした鶏もも肉に、刻んだにんにくと玉ねぎをバターで炒めて、花鳥風月のガリバタやみつき鶏。砕いたナッツを振りかけて、もう一味。隠しメニュー、ちゃんと残してくれていたのね。
「やっぱり裏メニューのままなのね」
「ご常連だけですね。これ、お値段のわりにお腹ふくれちゃうから」
 あの人もよく作っていた。よく、まかない料理として登場した。
 思い出すのは、照れたような微笑み。風貌は違うけれど、どこか似ているのです。そう思うだけかもしれないけれど、夢は長く見られるほうがいいと思いません?
「私はたくさんは食べられないからハーフでお願い」
 それから。なすとピーマンの素揚げ煮浸し。頭上にも多くのメニューが並んでいた。そう、これは、たくさんの「あれ」たち。かつて、元気だったころの、私のお隣さんが考案して、もしくはアレンジして、お店に並べていた、たくさんのご馳走たち。他のことは記憶から溢れてしまっているのに、お店のことはよく憶えていたのです。
「お待たせしました」
 作務衣のアルバイトさんもにっこりとして、少なめに盛られた、あれ、を、届けてくれたのです。
 漂う、良いにおい。お腹が鳴る。明日、にんにく臭くなるかな。そう、これは、あの人の時代からの裏メニュー。
「たまき。挨拶しな。こちら、先代の奥様」
 厨房から促され、不思議そうに小首をかしげる、かつての私のような女の子。
 たまきさんって言うのね。仙台の奥様だと勘違いしたかしら。
「たまきです。この店の看板娘やってます」
 臆面なくそんなことを言って、笑った。揺れる黒い髪。若いっていいな。無謀で、生意気に見えるくらいがちょうど良い。新しい看板娘は、かつての私より、ずっと素敵な、かわいらしい女の子でした。
「初めまして、たまきさん」
 昔、私は、あなただったの。昔、このお店の看板娘だったのよ。なんて、もちろん言いません。
「たまきさんは、おいくつ?」
「十七です」
 まだビールさえ飲めないなんて。残念な気がした。お酒を飲むのが良いことだとは思わないけど、大切なお隣さんとの乾杯は、きっとあなたの人生を豊かにしてくれる。
 それはまさに、文字通りの老婆心でした。
「ずいぶんな荷物ですけど、ご旅行ですか」
 板さんは、ニラを豚バラのスライスに巻いて、塩胡椒をぱらぱら。それをフライパンに。強火で一気に、お肉に焦げ目がつくまで。厨房から新しいご馳走のにおい。
「最後の旅、かもしれません。娘のいる神戸にね」
 一人で赴くのは初めて、で、間違いないと思う。忘れちゃったわよ、昔のことなんて。
「母さん、もう、トシでしょう。こっちで、神戸で一緒に暮らさない? なんて言うの。ほら、もう、こっちにいても」
 やることがあるわけでもない。
 思わず下を向く。グラスのビールの泡が一粒ずつ弾けて消えてゆく。いつかのお隣さんが愛した、花鳥風月は、新しい宿主と、その人のお嬢さんに切り盛りされて、生まれ変わって、しっかりと、いまを呼吸している。
 人は、生き物は、すべて、平等に年を取る。そのことを明らかに極めて、生きてゆくしかないのだ。
「だから、最後に、このお店に寄ろうと思ったの」
 きっと、最後に、という言葉は、若い二人には荷が重かったのでしょう。受け止められない言葉だってある。二人は、まだまだ、最後を考える年齢ではないのだから。
 私は、バッグのなかに忍ばせていた、かつての板さんを、かつての私のお隣さんを連れ出してみる。私たちは夫婦でした。いま、目の前の厨房には、父娘のお隣さんが、私たちを見つめてくれているのです。
 空のグラスに、新しい店主がビールを注いでくれました。川が確かに流れるように、水脈ができた、波打つ琥珀。弾けて消える泡。
 私もビールを、そして、店主もビール。娘のたまきさんはジンジャーエールを。それぞれに掲げてくれたのでした。
「人生ってね。ここにはいない誰かへの、返信のない恋文みたいなものなの」
 そう思わない?
 思わないか。
 私のかつてのお隣さんは、聞いているのかいないのか、相変わらずの微笑みを浮かべているのでした。

つづく
artwork and words by billy.
#創作大賞2023
#ほろ酔い文学

p.s.一人称で物語をリレーする、今回の「おとなりさん」。
なるべくわかりやすくと思って、今回から、冒頭に〈今回の語り手〉を表記しています。一話目、二話目は主人公、沢渡たまき。三話はその父、沢渡豊。それぞれに修正しておきました。
次回は、第三話でお店を訪れ、第五話から花鳥風月に新しくアルバイトに加わった、仁茂あかりさんを語り手にお迎えいたします。
それでは、またのお越しをお待ちしています。

©️ビリー

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