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連載小説「超獣ギガ(仮)」#13


生きることは食べること。

第十三話「記憶」

 昭和九十九年十二月二十八日。
 神奈川県横須賀市。

 閉め切ったカーテンの隙間から、白い光線が室内へ切れ目をつくっていた。かすかな風に布地が揺れる。冷気が忍び込んで、乾いた髪を揺らした。足元に冷たくなった白いシーツ。毛布を掴んで、引き上げた。膝を抱くように小さくなって、スマートフォンで日時を確認する。いつから眠っていたんだっけ。何日経っただろう。まさかとは思うけど、ひょっとして新年になっていたりするんだろうか。
 閉め切った部屋に浮かぶスマートフォンの光。見慣れた暗がり。小さな匣のなかに灯る火。それに照らされた白い顔。ふう、と、息を吐く。トイレに行こう、それから水を飲もうと思いながら、全身の疲れと気怠さから先送りにして、いまだに寝転んでいるままだった。何度も時間を、日を、確認しては、起きることなく、再び、海底へと沈んで眠り、浮上する夢を見た。見上げれば揺るる光。あの光は、見慣れた、ついさっきまで頭上に、あるいは真横に燈った、私たちの灯。
 伸ばした手のひら。手にしたもの。手放すことを余儀なくされたもの。
 それから。つかもうと伸ばした手のひらからするりと逃げて消えてしまった光について。体を動かさずに、何度か、まばたきだけを繰り返して、その風景の変わらなさを確かめた。再び目を閉じて、手を握る。
 花岡しゅりは繰り返し見る夢を反芻していた。何度、それを見て、目覚めただろう。落ちようと下瞼に、目尻に、溜まる涙にさえ慣れそうになるくらいには、こんな朝を繰り返した。負けたくないと思えば思うほど、柔らかくて優しい、真冬のひだまりの記憶は、しゅりを過去に連れ戻す。
 あのとき。あの日。まだ、生まれたばかりのはずなのに、どうしてだろう、私はそのときに見た光景をよく覚えている。新生児の記憶なんて、覚束ないか、あるいは記憶としては何も残っていないはずだ。しかし、しゅりは、そのことをはっきりと思い出すことができた。
 ついさっきまで泣いていたはずだった。泣いているのは自分だけだった。手を伸ばせば、自分を守る木の枠に届いた。その向こうにいるのは、父親だった。彼は微笑み、しゅりを見つめていた。眼差し。笑顔の目尻に寄るしわ。ちらほらと無精髭。差し出された大きな手。
「父さん」
 手を伸ばす。まぶたにいる、記憶のなかの父はいつの日も変わらない。静かな夜だった、はずだ。そう、それから、部屋の隅にクリスマスツリー。点滅するライト。揺れている、サンタクロース。トナカイ。針葉樹林。横には、一緒に眠っている、フレンチブルドッグのぬいぐるみ。それから、それから。温かい、冬の、幸福な記憶。
 もうすぐ、ママが帰ってくるからな。そう言って、しゅりは抱き上げられた。空に連れ去られたように、ついさっきまでのたくさんの幸福たちは遠ざかり、見下ろす眼下にいた。
 父は背の高い人だった。
 記憶は微かな頭痛を伴う。冬の雨のように音もなく続く滴をぬぐいもせず、甘い記憶のなかで呼吸を続けていた。心臓が左目の奥に移ってきたかのように、とくん、とくんと鳴る。それに合わせて、左胸も鳴り始めた。しゅりは思わず目を閉じる。父さん、と、こぼしそうになって、それを飲み込む。鼻をすする。目覚めていた。記憶が続いていた。

「おーい」
 何度、チャイムを連打しても、応答はなかった。スマートフォンにもメッセージを残しておいたが、既読にならない。躊躇せず、再び、チャイムを連打しながら、インターフォンに顔を寄せた。
「まだ寝てるんかー?」
 一秒間に十六回以上の連射を人差し指に撃ちながら、左手でスマートフォンを操作する。電源をオフにされてしまっている。あんにゃろう。出るつもりがないのだろう。ほんまに、あの子は、心配かけるんやから。鳥谷りなは、花岡しゅりの部屋の前にいた。
「起きやー」
 起きろ、じゃない。むしろ。生きろ、や。
 静けさを保ったままの部屋の主を気にかけはする。しかし、その部屋の奥に眠る彼女が、きっと、笑顔で戻って来てくれるであろうという不思議な確信もあった。あの子はそうそう負けへん。
「ごはん行くでー。あんた、何日も食べてないんやでー」
 人は。食べへんと死んでしまうんやで。なあ、一緒に、それから、みんなと、ご飯を食べよう。なあ。そう言って、りなはごんごんと拳で戸を叩き、そしてサンダルの爪先で蹴る。
 そろそろ出てこいやー。
「しゅりー」
 背に風が吹きつけた。りなの振り向いた視界に、冬の空。透徹の青。あの日よりも澄み渡る。それから、階段を抜けてゆく冬の風音。
 眺める見慣れた景色。階下に広がっている、昨日と同じ、人の営み。スーパーに吸い込まれて、吐き出される人々。パチンコ屋。釣具店の軽トラック。どこからクラクション。制服を着た高校生たち。自転車。手を繋ぐ親子。カップル。慌ただしいことも楽しい、年末の景色。
 自分たちが守ることのできた、今日の笑顔。思わず緩む頬。一昨日や、昨日と同じ。それを維持する理由。それを維持することの幸福。
 いや、それはそれとして。
 さぶっ。
 十二月末だというのに裸足にサンダル。部屋着のスウェット。小さく縮こまらせた肩が震えた。人類を守る治安維持機関の部隊員って、もっと、華麗な生活をしていると思っていた。格安とはいえ、その実、築五十年のマンションを買い取って、隊員宿舎に改装したと聞いた。それを聞いているときはへなへなと膝から地に落ちてしまいたかった。いざ住むと、床は微妙に傾いているのでビー玉を置くと北側へ転がってゆくし(加速やばい、と、しゅりと笑った)、シャワーは出力に難があるうえになかなかお湯にならないので、この季節はあちらこちらから悲鳴が聞こえる。トイレは狭くて座ると膝が壁につきそうになる。そのくせ、上下と左右に隣接する部屋には、しっかり流す音が聞こえていたりもする。
「おーい、しゅりー」
 褪色した扉を叩く。インターフォンも無言が続く。それでも、ここは大切な人たちが暮らしている。格安で。
「なあ、ご飯の時間やー」
 まったく、あいつめ。いつまで寝とるんや。
 隣り合わせの戦友の部屋を訪れた、鳥谷りなは、思いがけず放置の憂き目に遭っていた。

 あのとき。覚えている。忘れるはずがない。額から流れた汗。それは季節を問わない。思い出すたびに、それは流れる。首筋から生まれて、また、横になったままの身体を滑り落ちてゆく。産毛がそれに逆らう、微かな感触。
 あの日。私は泣いていた。どこかからサイレンが聞こえた。それを聞いた人たちが逃げ惑う、足音や、悲鳴。混乱。マンションの窓の外はクラクションと、誰かが誰かをなじる怒号。誰かと誰かが争う怒号。パトカー。誰かを制止するためのホイッスル。拡声器。泣き声。混沌。混乱。目を閉じるとよみがえる、悪夢の瞬間。
 父さん。
 しゅりは記憶に手を伸ばす。呼びかけようとして、その声を、喉を、口を閉ざした。這い出てこようとするものを飲み込んだ。発音はやめたつもりが、窓の外の光に向けて、その手だけは意思の外にあるのか、伸ばし続けてしまってもいた。
 あの日、あの時。轟音。窓に灯る赤と白、それからサイレン。拡声器から「逃げてください」「危険です」の野太い声。階下から届く悲鳴。私以外の、誰か別の子供の泣く声。ヘリのプロペラが高速で空気を切り裂いている、風切音。それから迫る救急車。
「しゅり」
 父の手が私の背へ。抱き起こされて、そのまま抱き上げられた、そのときだった。天井が崩されて、窓枠が外れた。割れたガラスが室内に散乱した。耳が破裂したかのような轟音だった。私に覆い被さった父は、その背に何かが落ちるたびにくぐもった声を漏らしていた。割れて揺れる窓枠。エアコンが落下した。粉砕したガラス片がカーペットを埋め尽くしていた。
 そして、侵入してくる、巨大な手。爪。私を抱いて、父は奥へ逃げた。私は気づいていた。外から私たちを睨んでいる青い一つ眼。頭を捩じ込もうと、外壁に打つ頭。マンションの背骨が歪む。階下から、階上から、泣き叫ぶ人々の魂。突き刺す冷気すら懐かしく生温い。
「建物が保たない」
 額から、頬から、肩から、鎖骨から。垂れ落ちる鮮血。みるみる荒く激しくなる呼吸。
「これしか、ないらしい」
 私を抱きかかえたまま、父は胸の前で手を合わせた。それは神頼みではなかった。
「天よ地よ。この光の源なるお天道様よ。我が心体、いまひとたび、この世の理すらも欺くことをお許しください」
 合わせていた手を解く。私を抱いている、父の体が、目の前に、立ち昇る、黄金の光。
「行こう、しゅり」
 室内を探っていた、大猿の手が私たちに覆い被さろうとした、そのときのことだった。
 父はあのとき。
 神技を操ったのだ。
 神のつくりたもうた、この世界の理に変更を加える力。人が人を超えるかもしれない、特別な能力。父は私を救うためにそれを使った。
 私もやはり、父の力を受け継いで生まれてきたのだ。しゅりはベッドのなかで自らの拳を握っていた。目を閉じる。
 思い出す。私を睨んで、光る、大猿の青い一つ眼を。

つづく。

artwork and words by billy.

#創作大賞2023


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