「ひとりで生きると決めたんだ」🐏いつもそこに笑い…がある
人が語る言葉が、必ずしも本音であるとは限らない、と、ふかわりょうは口にする。ましてや、ひねりある言葉の天才的な使い手である彼の真意は、字面を捉えるだけでは掴めない。
前作同様、このタイトルも、元々は彼の言葉であるにしても、その意図するところとはまた少し違った、ふかわが纏うイメージに寄せたキャッチーなタイトルで、本を世にアピールせんとする、新潮社の戦略を感じる。
数多の良書を世に送り出して来た新潮社が、著者に書くことを勧め、出版に至る経緯を知れば、タイトル選びにも、単にビジネス重視のあざとさよりも、編集人達のふかわへのリスペクト、もっと言えば愛が感じられるのが、ファンとしては嬉しいことである。
表紙の涙目のような羊は自分だと言う彼の言葉は、いつもの自虐ネタとしてクスリと笑えるけれど、アイスランドで彼の心を捉えた羊への共感であり、自分と世の中との関係性に、慎重でデリケートな警戒心を持つ著者の自己イメージなのかも知れない。
22編の章でなる構成で、どこからでも読めるのがいい。印象に残るのは…
砂時計
ラジオ番組のゲストに迎えた黒木瞳さんから砂時計を贈られたいきさつ。著者は会う人との関わりを構築するのが上手い。誰でもと言うわけではないらしいけれど。短いやり取りで、黒木瞳の気さくな魅力を余すところなく伝えている。
拝啓 みな実様
「同じものを食べていると、認知症になるよ」
毎日同じことを繰り返すことに、安定感を覚えていた著者に放った田中みな実の言葉に動かされ…どこまでが本心かわからないけれど、喜劇の一幕のような様子が目に浮かぶ、軽快なふかわ節。
いつもそこに笑いがある
お笑い芸人であるふかわりょうであるが、笑いが時として、人の傷を増幅させることを指摘する。
アカデミー賞の授賞式でウイル・スミスが壇上の司会者を殴った事件は、病で頭髪を失った妻を揶揄された時、笑いでなく、司会者の発言に大ブーイングが起きていたら起きなかったろう。
学生時代のクラスメートへの凄惨なイジメを語るミュージシャンに、記者が笑って調子に乗せなかったら、それはまずいでしょうと制していたら、どこかで耳にするだろう、大人になった被害者の癒やしがたい傷を蒸し返すことはなかった。
森氏の女性蔑視発言時の忖度笑い。教壇の教師に蹴りを入れる動画に被さる周囲の生徒の笑い。そして、誹謗中傷コメントへの面白半分の👍🏼の数。
各自が考えなくてはならない。それ笑っていいの?と。
笑いは酷い言動の肯定であり、応援であり、凶器ともなる。
👧私が小学校に上がったばかりの頃、授業中、先生の質問に、ハイ!と手を上げて、「〇〇○…」と答えかけた時、どっと笑い声が。何を笑われたか分からず、呆然と立っていると、離れた席の杉田くんが、よく通る声で「〇〇○って言うよ!」
その時初めて気付いたのだけれど、どうやら私は、かなりローカルな、公の場ではあまり使われない、非標準語を使ってしまったようだった。
訳もわからず大笑いされて竦んでしまったこと、学級委員の杉田くんがフォローしてくれたこと、笑い声がスッと止んだことを、半世紀以上経った今、こうしてひょいと思い出す。
無邪気なクラスメート達の悪気のない笑いではあったけれど、一言で制してくれた7歳の杉田くん、きっと素敵な大人になったんだろうなと思う👨
「鳴き砂の音がラとわかる」とのニュースに触れて、どうでもいいんだけど、という漫才師の言葉が笑いと共にひとたび電波に乗ってしまえば、それは「どうでもいいこと」と広く伝わってしまう。ふかわりょうは笑えない。彼にとってはどうでもよくないから。
相方が「どうでもよくないよ、大事なことだよ」と突っ込んでいたら、鳴き砂の研究者やふかわのような視聴者の気持ちも汲み取れ、客席の笑いのベクトルも変わってくるだろう。
重箱の隅をつつく男、と揶揄されることもあるそうだが、私にはそうは思えない。人と違った見方や感じ方があっても、それがどんなに些細なことであっても、心の中に大事に留め置く。同調笑いで流さない。素敵なことだと思う。
お笑い芸人であるふかわりょうの矜持であり、笑いのプロであるからこその自制には、とても共感する。
タモリほか、溺れる涙目の羊(ふかわ)の才能を愛して、折々に助け起こしてくれた恩人達の存在を自分の"橋脚"として心に納めながら、今はひとりで起き上がって堂々スタスタ歩いている。
世間の人にはどうでもいいようなことや、ひとりだからこそ見える世界が、彼には失いたくない大事な景色に見える。だからといって、ひとと生きる可能性に閉じているわけではない。
次回は「入籍すると決めたんだ」でお会いしましょう、とエッセイを締めくくっている。
ほらね🐏🐑
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