見出し画像

想像力を奪う社会、あるいはわたしたちの「定型のかなしみ」に対するいくつもの敗北/新庄耕『地面師たち』、緒方貴臣『子宮に沈める』

新庄耕『地面師たち』についての樋口さんの雑感にふかい感銘を受け、ぼくも読みたい!とおもっていたら編集のIさんから「大滝さんも読みますか?」と声をかけてもらえた。うれしかった。火曜日に手元にとどいて、読みはじめ、きょう読み終わった。

この『地面師たち』という小説は、「社会派クライムノベル」とでもいうべきスタイルの王道的な構造をとった小説だとおもった。犯罪をおこなうひとびとがいて、その被害者となるひとびとがいて、犯罪集団を追う捜査官がいる。事件をめぐる群像劇として物語がすすみ、最後に底知れぬ強大な悪意が顔を出す。その抽象的な次元でのありかたは19世紀の文学からおそらくは変わっていないだろう。そしてその末端、現実の事件として表出した悪意に翻弄されたひとたちは、それぞれの壮絶さを抱える。
しかしながら、その壮絶さとは裏腹に、みずからたちに降り注いだ厄災はどれもこれもことばにすると「ありふれた」ものになってしまう。騙された、家族を失った、社会的立場が窮地に追いやられた、それらすべてはその深刻さにくらべてかなしいくらいに定型的だ。これは「ぼくらはみずからたちに降り注ぎうる可能なほとんどのかなしみを容易に想像することができる」という解釈も可能だろう。なんらかの悪意によってぼくらがそれぞれに抱く個人的な苦しみとはまったく別の次元で、ぼくらを苦しめる多くの悪意というのは、実のところ高度な想像力によってもたらされるものではない。ありふれた、だれにでも考えられるような定型的なかなしみに対して、ぼくらはおそらく真正面から立ち向かえるほどの力を持っていない。

『地面師たち』と同時期に、友だちからのすすめで映画『子宮に沈める』をNetflixで観て、原作となった杉山春のルポ『虐待』を読んだ。無限にかなしかった。



これらのルポと映画は「大阪二児置き去り死事件」を元にしたものだ。この事件では離婚をきっかけにきびしい生活にさらされた二児の母が、夜の仕事をはじめ、男性に依存し、かつては子どもをたいせつに育てていたはずの彼女が、50日間子どもを放置した挙句に二人の子どもを死なせてしまう。ルポ『虐待』では加害者となった母親の半生についてが書かれている。
映画『子宮に沈める』は状況の説明が極限まで排除され、カメラは一貫して母子が住む部屋のなかだけを映し続ける。生活の断片が時系列に沿ってならべられ、それでもこの映画が一定の作品性を備えているのは、映し出される断片から「母親の物語」を想起できるからだろう。母親の離婚、夜の仕事をはじめるきっかけ、男の影、そして死なせてしまった子どもたちへの感情、それらを繋ぎ合わせることができるがゆえに
ぼくらはこの映画を「母の物語」という枠組みで了解できるだろう。
しかし、この映画のもっともむごいできごとのすべては、カメラから母親が完全に退場した日々のなかにある。「母の物語」という枠組みにより作品性を支えられたこの映画で、カメラに映し出されるすべてが「母の物語」の外部になったとき、子どもは死ぬ。
子どもたちの死は、母親による殺意とは似て非なるものにもたらされたのだろうとぼくはおもう。子どもたちをみずからの物語の外部に配置したときはじめて、母親は「子どもが死ぬ」という容易に想像できるはずのことを想像することをやめた。子どもたちを生かすために必要な死の想像を手放したときに事件は起こったのならば、彼女にあったのはあきらめにちかいものだったのかもしれない。母不在の部屋が長時間映し出されることによって、母の存在の匿名性が高められる。だれだって、きっかけひとつで「我が子の死の想像」を手放してしまう可能性がある。この映画の示す「不在」には、なにひとつとくべつの想像力が存在していない。ぼくらが容易に定型的な苦しみやかなしみに敗北してしまいうるという、無力さがただただ突きつけられる。それがこの映画の絶望だろう。

社会問題とされるものは、時代のゆらぎで偶発的に表面化したなんらかのキーワードが人間から想像力を奪い去ることで生じるのかもしれなかった。会社員をしていたあいだ、無意識的に自己啓発本を本屋で手に取っていたことがある。あのときぼくはなんでもいいから答えが欲しかった。たしかなことは答えを求めている瞬間、ぼくらはかならず想像力を手放している。

頂いたご支援は、コラムや実作・翻訳の執筆のための書籍費や取材・打ち合わせなどの経費として使わせていただきます。