【第0回】わたしが「理系」だった頃
理系だった日から十年が過ぎました。
ここでの「理系」とは、ぼくが工学系の大学院にいた頃を指します。二〇一四年三月、博士論文を書くことなく単位取得満期退学というかたちで大学を出て、同年四月から大阪の広告会社で営業職として働きました。それから二年ちょっとで退職してフリーランスで文筆業をはじめ、いろいろあって現在は小説家をしています。つい先日、実家(淡路島)の母親が、ぼくの中学の同級生(T君)のお母さんとスーパーで立ち話をしたところ「あんたんとこの子ども、理系やったんちゃうの?」と言われたらしいです。それを聞いてぼくはもうずいぶん前に理系ではなくなっていたと気づきました。
正直なところ、いまさら「理系作家」みたいな看板を掲げるつもりもありません。
そもそも「理系」に限らない話ですが、小説家と学者ではテクストの「厳密さ」について意味や扱いがまるで違います。この「厳密さ」という概念を厳密に説明すると非常に長くなるので割愛しますが、かんたんに言えば、ぼくは学者的な「厳密さ」にはあまり向いていませんでした。一般に「理系作家」という言葉は、この「厳密さ」を多分に含んだニュアンスで使われます。自分の小説観と照らし合わせてみると、どことなく居心地が悪いというのが本音です。
さて、学者的な「厳密さ」に向いていないと気づいたのが、修士課程二回生になったばかりの春です。当時、はじめての査読付き学術論文を書いていました。
そのときに自分はもっと「いいかげんな」ものの方が向いている気がする──と思ったのかどうかはあまり覚えていませんが、ちょうど同時に小説を読みはじめたのは確かです。それまでは活字の類はほとんど読まずに生きてきました。
すべてのはじまりだった『空想科学読本』
修士課程二回生の春とは、年齢でいうとおおよそ二十三歳です。それまでに教科書や宿題以外で読んだ本は数えるほどしかなかった気がします。中学のときに社会現象となっていた高見広春『バトル・ロワイヤル』(太田出版)や、高校生のときに大ヒットした片山恭一『世界の中心で、愛をさけぶ』、市川拓司『いま、会いにゆきます』(ともに小学館)を友だちに半ば押し付けられるように貸してもらったくらいです。実家にあった本といえばオカンが「これええで!」と言っていた乙武洋匡『五体不満足』と大平光代『だから、あなたも生きぬいて』(ともに講談社)ぐらいでした。
あと実は殊勝なことにドストエフスキー『罪と罰』(新潮社、 工藤精一郎・訳)を読んでいたのですが、その理由は「ドストエフスキーとトルストイの区別がどうしてもつかなかったから」です。大学受験では世界史を選択していたのですが、暗記がどうしても苦手でした。そこで「どっちかの小説をひとつでいいから読んでしまえば嫌でも覚えるだろう」と思って新潮文庫を手にとったわけですが、内容はなにひとつ頭に入っていません。持ち前のガッツと元気良さだけを評価できる読書でした。
こう振り返ってみると十代の頃のぼくにとって「読書」とは、生活のなかでなくて問題のないものだったと言えそうです。
しかし、一冊だけ──それも小学生のときに読んだもので、以後の人生に否定しがたいほど強く影響を与えていると言える本があります。
それが柳田理科雄『空想科学読本』シリーズ(現在はKADOKAWAより刊行)です。小学五年生から中学を卒業するまで、何度も読み返しました。
これは「ウルトラマンや鉄腕アトムなど特撮・アニメの世界で実装される空想科学が現実世界に持ち込まれると何が起こるか検証する」という内容でベストセラーとなった賛否両論ある本ですが、幼いながらに惹かれたのはこの本の「厳密さ」ではなく、想像力でした。たとえば「ウルトラマンがウルトラ水流を大気中にぶっ放すと北半球に氷河期が訪れる」とかそんなオモシロ話がたくさん出てくるのですが、それはすべて計算に基づく推論として書かれています。
言い換えるとこれらは数字によって導き出された想像力です。それまで無機質さしか感じなかった「計算」や「数字」といったものが、思いもしなかったものへと繫がっていく感覚が楽しかった。想像力がウニョウニョと変なところにどんどん伸びていくこの現象は、数式というものが言語的な有機性を具えている証拠ではないかと思います。
無論、小学生時代の大滝少年が「数式とは〝言語〟なのだ──」とか後方腕組み師匠面で思慮深くうなずいていたわけではありません。しかし、数式の言語性に無自覚ながらも興味を持っていたようです。中学二年生の数学で「三角形の合同証明」を教わるのですが、あれは言葉として数学に触れる最初の単元です。
多くは言いませんが〝多感な時期〟にあった大滝少年は脱線と屁理屈を繰り返した答案作りにしっかりハマりましたが、それは確実に『空想科学読本』を読んだせいでした。
自然科学としての「小説」
とはいえ読書が好きというわけではなく、高校を卒業してから四年ほどは読書らしい読書をしていませんでした。ただ大学院生になると論文を読んだり研究室で自主的に勉強会をするようになり、自分の専門に関する「読書」を突然するようになりました。
ぼくが大学院の五年間で専門としていたのは「熱力学」「統計力学」と呼ばれる学問です。
小説やマンガでも「エントロピー」という言葉はよく使われますが、その概念が生まれた分野と言えばピンとくるひとはピンとくるかもしれません。とりわけ非常に小さな領域の熱伝導についてを研究¹⁾していて、「流体力学」というものや自然現象の表現に特化した数学も同時によく勉強していました²⁾。
さてこの熱力学・統計力学について気の利いたひとことで言い表すのは困難ですが、ここでは「構造の学問」と説明しておきましょう。「構造」とは、ひとつの全体を作り上げる各要素の関係性を意味する用語です。この世の物体はすべからく原子の集まりであり、どんな原子がどんな格好で集まっているかでその性質が決まります。
この「集まり方」を決めるのがポテンシャルと呼ばれるもので、中学理科的には万有引力などに由来する位置エネルギーだとひとまず考えてみてください。物体のかたち──原子の配置──はポテンシャルが最も小さくなるように進み、その最小値³⁾が「安定」と呼ばれる状態です。水が高いところから低いところへ流れるのも、液体が無重力空間で球形になるのも、コーヒーの粉を瓶に入れてちょっと揺すると嵩が減るのも、地震で液状化現象が起こるのも、どれも安定な構造への遷移現象と解釈できます。そして先にあげた「エントロピー」はポテンシャルにとって重要な変数のひとつです。
「ポテンシャルという関数を調べることで系の特徴が摑める」のは何気にすごいことで、たとえば「構成原子すべての運動方程式をわざわざ解かなくても全体がわかる」⁴⁾ということになります。これはこの学問の基礎的な思想で、美意識と呼んで差し支えないもの強く感じます。
例えば小説を読むとなれば、一文一文の意味を厳密に読み取っていくというのは当然基本的な読み方です。しかし一方で、小説を構成する各文がどのような関係性で結ばれているのかに着目することで浮かび上がる問題もあります。
それが「小説はどうして書けてしまうのか」という問題です。
あるいは「どのようにして〝小説〟という現象が発生しているのか」と言い換えることもできるでしょう。
ぼくが小説を読み書きする最大の理由は、この問題を自分の手で解きたいからです。
この連載について
本連載はもともと『小説すばる』(集英社)で連載していた「理系の読み方」をリニューアルしたものです。
旧版では人文系分野・自然科学系分野のそれぞれから一冊ずつ選んで紹介する「文理横断ブックレビュー」として連載をしていました。そして誠文堂新光社のサポートを受けての本連載はこのコンセプトを引き継ぎつつ、「小説×自然科学」に注目したお話がメインになります。
今回はウェブ連載で紙面の制約がないので、つっこんだ話もいろいろできるかと思います。古典名作から現代作品まで幅広く扱えればと画策しています。
また「この小説でやって欲しい!」というご要望があればぜひお気軽にリクエストしてみてください!
なお「理系」と銘打ってはいるものの、上述のようにぼくは一部の物理と数学をちょこっと知っているだけで、化学や生物などの話題についてはすこぶる疎い点をご了承ください。
世界で自分しか知らないこと
前書きの最後に、自身の小説との関わりについて少しだけ。
ぼくは純文学系の文学ムックから短編で商業誌デビューした後、その後SF雑誌を主戦場としながらたまに文芸批評のような文章を発表し、突然書き下ろしミステリで初の単著を出した……という一貫性のない文筆キャリアをこれまで歩んできました。成り行きでこうなったとしか言いようがないのですが、フラフラしてきたからこそいろんなジャンルに興味を持てるようになったという実感もあります。「○○作家」みたいなジャンル作家になりきれない歯痒さはある一方で、自分のキャリアを今は「ガリヴァー旅行記」と考えています。純文学島で生まれ、SF島で育ち、ミステリ島に出稼ぎに出た……みたいにジャンルを渡り歩きながら小説のことを考えていると、自分にとって常に新しい発見があります。なにより自分に似ているひとがいないからこそ、いま考えていることが「世界で自分しか知らないこと」に思えてきます。
学生時代、指導教員のM先生に「何が楽しくて研究をしているのか?」と聞いたことがありました。
そのとき先生は「〝世界で自分しか知らないこと〟ってなんかええやん?」と答えたのですが、自分にとって大事な言葉になりました。
研究者を志してをしていた大学院生時代と小説家をしている現在とで、おそらくただひとつ一貫しているのはこのマインドで、そして「小説」という世界を旅する上でのコンパスにもなっています。これなしでは小説を続けてこられなかったし、今後続けることもむずかしいと言い切れます。
そういうわけで、「理系の読み方」が読者さん一人ひとりの「世界で自分しか知らないこと」の発見を後押しできるものであることを祈りつつ、次回から本編をはじめていきます。
まずはフランツ・カフカ『変身』(新潮社、高橋義孝・訳)です。ご期待ください!
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