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論理的思考がんばってます。


こんにちは!ヒトミです^_^


こちらチェコで医学部高学年になって、というか医学部にくる前からなんですけれど、自分は何事もできるだけ論理的に物事を扱うことに気を配っています。

そこで、論理的思考についてなるべく論理的に書いてみようと思います。笑


論理的な考え方とは

グーグルによれば、

ロジカルシンキングとは物事を結論と根拠に分け、その論理的なつながりを捉えながら物事を理解する思考法です。 日本語では「論理的思考法」と言います。 物事を論理的に捉えながら話すことにより、聞き手にもわかりやすく伝えることができます。 問題解決の際にも原因特定や解決策の立案に効果的な思考プロセスです。

https://www.recruit-ms.co.jp/glossary/dtl/0000000192/


因果・相関など記号や図形で表せるアルゴリズムに則った考え方

が個人的なイメージです。
わかりやすいかなーと。


「私はAがいいと思う。なぜならこうだからだ」
「タバコはやめた方がいいと思う。なぜならばこうだからだ」
「私は今日仕事に行かなかった。なぜならばこうだからだ。」
「合格したい。そのためにはこうする」


ざっくりこんな感じな話し方考え方になるんかな?



感情的思考とは対ではない(個人の感想)

感情的な考え方は、

「子猫を道で拾った。なぜならば可哀想だったから」
「買う予定ではなかったが、お得だと思って買ってしまった」

みたいな、記号とか図式にしずらい考え方で、割と世の中にありふれているイメージです。


非論理的思考、とか言われますが、論理的思考と非論理的思考は日常では入り混じっている感覚がします。


例えば、
さっきの例であった、「買う予定ではなかったが、お得だと思って買ってしまった」では、

あらかじめお買い物リストを用意して買い物をしていた(論理的)が、リストにはないお得そうなものを見つけて買ってしまった。(非論理的)

また、
食べたくないのに料理をしてしまった(非論理的)ので、分割冷蔵して明日明後日食べることにした。(論理的)

みたいな。
あってますかね。。。


論理的な主張の仕方

主張+根拠(not感情)+感情

上記がよくディベートの仕方なんかで紹介されている、「主張の基本構造」ですね。


根拠は論文データだったり個人の感覚だったり様々ですが、感情(凄そうとか、可哀想とか、ありえないとか)とは切り離すのがポイントと言われていますね。
(一般的にきっちりした目的のあるディベートの時は論文データが個人の感覚よりも根拠として強いとされています。つまり、”多い・少ない”より具体的な数字を言った方が信憑性が増して相手を納得させやすいということです。)



論文データにも信憑性のピラミッドというものがありまして。。一般人には眠い話(自分もちょっと前までつまんないと思っていましたw)と思うので省略します。


ふつーの一般人の間の会話だったら「データあるんすか?」って言って論文いちいち引っ張って…なんて現実的ではないし、

単純に普通の会話の中に論文データがない=相手が論理的思考をしてない、と判断するのはおかしな話ですよね…。(ここは寛容になれ〜です)
個人の感覚が根拠として十分な時もあります。



論理的思考がどこで役立つのか?

これは私がなぜ論理的に考えることを練習しているかにつながるのですが、


もっとも大きいものでいうと、
人に何か(意見や人からもらった情報など)を伝える時と、物事を考える時・推察・考察・予想など
ですかね。


筆者は小さい頃から人に何かをわかりやすく伝える、というところ、
特にどんな場面でも大事な部分を要約して伝えることに非常に苦労していて、
国語の塾(作文力や論理的思考を養うところ)に通ったことがあったり、今もこうしてnoteで練習したりしています。。


昔は漢字をひたすら覚えさせられ、
登場人物の心情としてもっとも適切なものをa〜dの中から選ばされ(笑)
で国語の大事さはそんなにわかってなかったのですが、

歳をとって見聞が広がるうちに将来どんな職に就こうが、どこの国で就こうが、人に伝える力はすごい大事だなと今になって実感しますね。


論理的ではない思考とは?

バイアス

感情的な思考とバイアスは少し近い関係かなと思います。


身の回りのバイアスについてあげてみます(わかりやすいようにバイアス=あの感じとします)

  • 失敗したくないが故にチャレンジしないあの感じ

  • 自分の身の回りでは起こらないだろうというあの感じ

  • 全知全能を感じているあの感じ

  • おんなじ主張でも有名な人が言った方が信憑性が増すあの感じ

  • いい人の周りもいい人であってほしいあの感じ

。。。
いっぱいありますね。


バイアスはありふれているので、バイアス0の生活なんてできないと思います。


詭弁

「それは詭弁だ!」みたいな言い合いをしている・みたことがある人いるかと思います


詭弁は一見論理的に見えて論理的ではなくて、とにかく相手を納得させるための(言い負かすための?)論法として使われます。


自分の思いつく範囲で例を幾つかあげてみます。


  • わら人形論法

Aさん「犬と猫どっちが好き?」
Bさん「犬かなあ」
Aさん「へーじゃあBは猫が嫌いなんだ」
Bさん「?」

Bさんは単純に犬が好きと答えたわけで猫が嫌いとは一言も言ってないのですが、Aさんは「Bは猫が嫌い」という風に受け取りました。

Aさんはどっちが嫌いかなんて聞いてないのでこれは論点のすり替えが起こっています。


  • あの人だって論法

警察「どうして違反したのですか?」
Cさん「あいつだって違反しているじゃないか」

Cさんは自身が違反したことに対して聞かれているのに、話の外の人間を引き合いに出していいか悪いか言っていますが、これも論点のすり替えが起こっています。

そもそも他の人がしているからってルールを破っていい理由にはなりませんよね。


  • 他の国では食べたくても食べられない子がたくさんいるのよ論法

小さい頃にお残しをして親からこういう風に言われた人いたと思います。

自分はお腹いっぱいだから残したとか、苦手だから残した、とか色々ですが、
今この状況で食べるか食べないかの話なのに他の国の全く違う環境での話をすることはこれも論理的ではありません。


似たようなことが外国人の中でもみられました。

ウクライナの戦争に関する「戦争はやめるべき」という趣旨の投稿がSNSで相次ぐ中、
知り合いのとある中東系の人がその中のひとつに対して憤っていました。

「なんでウクライナのことだけこんなに取り上げられているのか。白人だからか。世界には他にも戦争で傷ついている国はいっぱいあるんだぞ。」


白人云々は置いといて最後の一文!


ウクライナの戦争の話であってメディアの公平性の話ではない上に、じゃあ全部の戦争を取り上げよう、というのも現実的ではありませんよね。



  • もう○○歳なんだから、○○なのにこんなのもできないのか?論法

当事者を恥ずかしい気持ちにさせるため/自分を少しでも優位に感じたいときの詭弁です。

みてすぐに変な話だなぁってわかると思います。(だったらそいつはなんでもできるのか?!っておっとこれも詭弁ですね笑)


100歳のおじいちゃんが何でもかんでも知ってて正しいことってあるかもしれないけれど、大体ないですよね…認知症を発症していることも多いですし


年齢と知識は比例しないけれど、○○(ある年齢層や職業など)だったら知ってて当然!というニュアンスで言うこともあると思いますが、その当然の範囲というのは漠然としていて個人差もあるのではないでしょうか??


それでもこれは、という時にはその人との関係を平和に保ちたいのならば、もう少し柔らかい言葉にした方が後々トラブルにならずスマートだと私は思います。


  • ○泉論法

有名な反復。

英文の教科書や論文でも何かを説明するときによく使われる技法で、言葉を強調するにはいい方法ですけれどディベートなど相手を納得させたい時には役にたちません。


私は人の役に立ちたい。人を助けたいからだ。
みたいな…
気持ちはわかるけれど根拠が無くてなんとなく腑に落ちませんね…。


実際そういう感じで、根拠を考える暇もなく気づいたら人命救助だったり間接的に人の役にたってた!って人はいるとおもうのですが、
もし面接だとしたら結果はあまり良くないと思います。



詭弁も感情的思考やバイアス同様、生活の中でありふれています。


思考は非論理的だからと言って、その人の人格を否定するものではあってはならない

これは、論理的=頭がいい人というように
論理的思考が無差別的に崇拝される現代において割と重要な視点と思ったので書いていきます。


そもそも日常が非論理的であふれている。

先ほどもあげましたが、衝動買いであったり、”多い・少ない”であったり、想定外のことが起きたり、バイアスにかかったり、自分や他の誰かを無理やり納得させようとしたり??、日常は論理的なことを探す方が難しかったりします。



だから自然と論理的である人が際立ち、賢い人という風に言われるのでしょう。。

※一見論理的に見える科学も、実際は非論理的なものを無理やり論理に当てはめていることも少なくないです。
例えば物理化学の公式や演算は重力加速度や室温も一定とされる中で成り立つものです。



こないだたまたまYouTubeでこの話をレゴブロックにたとえてわかりやすく話されている動画に出会ったので貼っておきます。

この岡田さんについて私はあまり詳しくなくてほぼほぼ初見なのですが、個人的に
この見解はわかりやすいなと思いました。



検査で異常がないのに体調不良を訴える人が出ています。

もう少し身近で具体的な例だと、

最近では検査は正常だけれどなんとなく不調な人がいて、
医師にとっては原因もわからないのに来院するのでイライラしてしまうのでしょう、
勘違いだ、ストレスだ!といって患者は精神科へ、、、


これが医学も100%論理的じゃないことを物語っています。



医療系の人は知っていると思いますが、
現行のパラメーターというのは決まっていて、今はあくまでその決まった範囲内で検査をしているのであって、

その検査が陰性だからと言って、その人が100%健康な保証などどこにもないということなんです。

私がチェコの病院で出会ったある内科医の言葉には、
「私たちは患者を治しているのではない。治すのは患者自身であって、私たちは薬や手術で値を正常値にしているに過ぎない。」


同じく外科医の先生もこう言っていました。
「僕らの仕事は患者の体を患者自身が治せるようにサポートすること。手術の後よくなるかは患者の体次第で、僕たちには祈ることしかできないんだよ。」


検査のパラメータ以外にも、本来とある疾患向けの薬が全く違う疾患にも効果が
あったりします。

よかったら参照してみてくださいσ(^_^;)



論理的思考は100%じゃないけれど、そうでないものとのバランスが必要。

私たちはありのままで色々な考えを持つ権利があります。

例え間違いであっても人間修正が効くし、間違いを共有することで他の人の学びにつながるいい機会になることもあります。


先ほど触れたとおり、論理的思考は時によってふさわしくないこともあります。

でも基本的に他人に話をわかりやすく伝えるいい手段でもあります。


論理的思考と非論理的思考どちらもうまく使いこなせるようになりたいなあ。。












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