アムステルダムの一夜 1989年11月(その3)

階段を昇り、家の中に案内された時、更に僕を当惑させることが起きた。

「やあ」

そこには、別の男がもう1人いたのだ。

20代か30代で、顎髭をたっぷりと蓄えた男、どうやらアルジェリア人と言うことだった。

「彼は私の友人でね。今夜は3人で楽しく過ごそうじゃないか」

家のオーナーである彼は、困惑して立ったままの僕に、優しい口調でそう言った。

誰かいるなんて聞いていなかった。

別にそれはそれでいいんだが、僕はなんと言ってもバックパッカーとしての長い旅を始めたばかりであり、こんな風に外国人の自宅に招かれた経験もそれが初めてだった。

すぐ近くを流れる運河は、妙な静寂に包まれている。

僕は、なんとも形容できない不安を覚えた。

「さあ早速ビールでも飲もうじゃないか。この日本人はね、ビールがとても好きなんだそうだ」

そうアルジェリア人に説明するこの家のオーナーを改めて観察すると、いかにもおっさんと言える老けた風貌をしている。

これ以降、彼のことは面倒なのでおっさんと呼ぶ。

階段を登って玄関を開けたすぐ、狭いダイニングがあり、アルジェリア人はダイニングテーブルに座っている。

「そうなのか。俺は生憎酒は飲まないが、一緒に楽しもうじゃないか」

座ったまま、彼は柔和な笑みを僕に浮かべた。

髭モジャでよくわからなかったが、彼は若く、なかなかにハンサムな男のようだった。

「さあここに座って、座って。私はビールを持ってくるからね」

おっさんは、キッチンに向かうと缶ビールを1本持ってきてテーブルに置いた。

そして、すぐにまたキッチンに戻り、簡単な食事の準備を始めたようだった。

「ヨーロッパには来たばかりなんだって?」

目の前に座るアルジェリア人にそう聞かれ、僕は緊張から逃れるために遠慮なくビールを口にした。

よく冷えた美味しいビールだった。

「昨夜この街に着いたんだ。今からヨーロッパから北アフリカを4ヶ月かけて回るつもりだよ」

「それはいいね」

流暢な英語を話す彼は、なかなか性格も良さそうなやつだった。

それほど大きな家ではなく、狭いキッチンにダイニング、そしてこれもさして広くはないリビングルームがあるだけだ。

「さあ、サラダから食べてくれ」

おっさんが自分で準備したと言うサラダがテーブルに運ばれてきた。

やがて、彼は料理を何皿か用意した後、自分も席に座って僕たちと一緒にビールを楽しみ始めた。

初めての夜としては悪くないスタートだ。

僕はビールの心地よい酔いに包まれながら、2人との会話を楽しんだ。

2人は僕の目の前に並んで座っている。

親密な感じで、かなり長い付き合いのように見えた。

そんな風に3人で話しながら、30分くらい経過した頃だろうか。

僕は何本目かの缶ビールを口元に運んだ時、既に空であることに気づいた。

そのときだった。

「おい、日本人のビールが空だぞ。早く持ってこなきゃ駄目じゃないか!」

アルジェリア人が、突然おっさんにそう叱責したのだ。

それまでの穏やかな会話とはかけ離れたその強烈に命令調なセリフに、僕は思わずビールの空き缶を手にしたまま固まった。

「へ、へい。ただいま」

おっさんはアルジェリア人に平謝りといった感じで恐縮した様子で椅子から飛び上がり、キッチンに早足で向かった。

おいおいなんなんだ、この2人の関係は。

あまりの豹変した2人の態度に、僕は演技でもしているのかと思った。

少しずつ2人の世界に引きずり込まれていることに、そのときの僕はまだ気づいていなかった。

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